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古事記と言霊講座101-120日目

古事記と言霊講座101-120日目

◆/101日目:これからの古事記と言霊の講座/

100日目が過ぎました。

しかし、私の力不足で大きな内容として『禊祓』のところが
終わっておりません。

すこし時間を頂いて、そんなに遠いないタイミングで、
20日間ほど、『禊払』の講座と古事記と言霊のまとめの
講座を行いたいと考えています。

その間も、この教室はやり取りが出来るようになっておりますので
復習も兼ねて、やり取りが出来れば幸いです。残っているご質問に
もお答えして行きたいと思っております。

きちっとした講座までの間も、言霊に関する情報は適時アップして
参りたいと思います。

ヨハネによる福音書の中に、
『初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。』

とあります。言を、言霊と読み直せば、

『初めに言霊があった。言霊は主と共にあった。言霊は神であった。
この言霊は初めに神と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
この言霊は命であった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。』

となります。(^_^)。

100日前と違って、古事記と言霊の学びで、すべてのものが
五十音言霊から創造されたことを知った上で読み直すと、
ずどんと心に響くものがあるのではないでしょうか?

私の人生も言霊で光らせることが出来るのです。

/人間の心は五十個のコトタマで出来ている /

日本人の先祖は遠い昔、人間の心と言葉の関係に注目して、その極めて合理的で精密な法則を発見し、布斗麻邇と呼びました。コトタマの原理のことです。この原理・法則は人間の心を解明し、説明することが出来る心のすべてです。「人間の心とは何ぞや」の問いに対する完璧な解答であります。

人間の心が五十個のコトタマによって構成されていると前に書きました。それなら心はその五十個のコトタマによって、どのように構成されているのでしょうか。心の中に五十個のコトタマが、ただバラバラに散らばっているわけではありません。心を構成している五十個のコトタマは、しっかりした構造を持ち、その構造のそれぞれ一定した動き方によって色々な心の現象を生んでいきます。

先ず物質の構造について考えてみましょう。物には形があります。色や堅さ、固体・液体・気体の区別があります。それら種々雑多のものを一つ一つ分析していき、物の本質とは何かを考えていくと物質の分子にまで到達します。その物(例えば石、水、木など)を構成している最終的な単位です。それ以上分析すれば、そのものでなくなってしまうものです。

物そのものでなくなってしまうことにかまわず、さらに分析していくとしましょう。するとその物の分子を構成している元素の原子が現われます。水の一分子は水素原子二個と酸素原子一個の結合で出来ています。現在、自然の状態で宇宙に存在する元素は九十数種、人為的に特殊な装置の下で発見された元素を加えると百数十種の元素があるということです。元素は物質の最終単位ということが出来ましょう。

科学はその元素の原子の内部にさらに研究のメスを進めました。そして物質というものを構成している先験的な内容―電子・原子核・陽子・中性子・その他種々の核子等を発見していったのです。これらは、物質的な現象を生ずる以前の先験的構造というものです。先験的な要素は、人間の感覚で直接に捉えることの出来ないものです。ただそれによって何か現象が起された時、初めてその存在が確かめられます。それに対して物質の元素の原子によって構成されたこの世に存在する種々の物は、後天的な存在ということが出来ます。五官感覚によって捉えられる存在です。

物質を構成している要素に先天と後天があるように、人間の心の要素にも先天と後天があります。頭の中で何か考えているけれど、それがまだ定まった形や内容となってこない間、これが先験的な部分です。古代の日本人の祖先は苦心の結果、この心の先験の構造を明らかにしました。それによると心の先天の部分は十七個のコトタマで構成されています。そして心の後天要素―何らかの心の現象として現われたものの要素としてのコトタマは三十三個であります。先天十七、後天三十三、合計五十個のコトタマが心のすべての要素です。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/102日目:鈴の語源/

『鈴』(スズ)の語源を復習したいと思います。

/:鈴の語源 /

 「古事記」の神話はアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の原理を言霊百神の物語として説いている。百神の初めは「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は天の御中主の神・言霊ウ」である。

 次いで先天言霊十六、アワオヲエヱ、チイキミシリヒニ、イヰが現れ、心の先天活動が定まる。

 次にこの先天の活動によって三十二の子音言霊、タトヨツテヤユエケメ・クムスルソセホヘ・フモハヌ・ラサロレノネカマナコが誕生し、次にこれ等言霊を神代文字化する火の迦具土の神・ンが生まれ、言霊総合計五十個が出揃ろう。

 次に言霊の神・伊耶那岐の神は五十個の言霊の運用・活用の方法を検討し、五十通りの手順を経て言霊学の総結論である三貴子(みはしらのうずみこ)=天照大御神、月読命、須佐之男命を誕生させる。言霊布斗麻邇の原理の完成であり、伊耶那岐の命の天地創生の事業は終了する。

 人が人の何たるべきかの原理・法則をすべて検討し尽くして黙居した姿を言霊スという。スメラミコトのスであり、住居・巣・洲のスである。創造主神伊耶那岐の命の仕事は言霊ウで始まり、言霊スに終る仕事によって言霊百神という子、即ち言霊布斗麻邇の原理が完成する。

 稲(イの音)を挽いて粉(こ)を作る道具に臼(うす)と名付けた太古日本人の心は誠に素晴らしい。

 伊耶那岐の命の言霊ウよりスに至る作業により言霊百神の原理、即ち人が人たるべき根本原理であるアオウエイ五十音言霊布斗麻邇の学が完成された。それは臼の原理とも言われる。

 「古事記」が教え示してくれる百神創生の順序はとりも直さず天津日嗣スメラミコトが、文明創造のために言霊スの立場より立上り、臼の原理、五十音言霊の原理を活用・運用して政事(まつりごと)の処理に当った。

 その活用・運用することを古代では「振る」と言った。その言霊は高千穂の奇振嶽(くしふるだけ)や石上神宮の布留の言本(ふるのこともと)等に遺されている。スメラミコトは人類文明創造の仕事、即ち禊祓に当たり、言霊スの座から立上り、臼の原理を振い終わって再びスの座に帰る。

 スの完了形として濁点が付き、ズとなって収まる。スから始まってズに終る。それが天津日嗣スメラミコトの仕事、即ち言霊五十音言霊という鈴を振ることである。鈴の語源である。

 石上神宮の伝え言に謂わく「一ニ三四五六七八九十と称えて、これに鈴を結べ」と。伊勢神宮は裂口代五十鈴の宮即ち言霊五十音を祭った宮であり、石上神宮は布留の言本即ち五十鈴を振るい文明創造の曲を奏でる方法を祭った宮である。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/103日目:五母音宇宙/

今日は、『五母音宇宙』を復習したいと思います。

/五母音宇宙 /

五母音宇宙

●ウの宇宙(言霊ウ)

 赤ちゃんは母親の胎内から生れ出て、何も教えられないのにお乳を飲みます。乳房を吸います。これは生来人間に備わった欲望本能の現れです。この欲望の出て来る根元の宇宙に、母音のウと名付けたのです。

 このウと名付けられた欲望の現れ出て来る元の宇宙、これをコトタマのウと呼びます。字を分りやすくするために今からコトタマを言霊と書くことにします。

 言(こと・言葉)はウです。霊(たま・内容)は欲望が出て来る元の宇宙のことです。これを一緒にして言霊ウと呼びます。

 仏教で眼耳鼻舌身と呼ぶ五官感覚による認識の能力も、この宇宙から現れてきます。赤ちゃんが次第に成長して大きくなり、美味しいものが食べたい、美しい服が着たい……から、金持になりたい、良い人と結婚したい、大臣になりたいなどの欲望もこの言霊ウの次元の現象です。

 この欲望の次元の現象は、人間の精神の最も幼稚な性能であると同時に、生きていくために最も基本的な本能だということが出来ましょう。この人間の性能が社会的になったものが、各種の産業活動であります。

●オの宇宙(言霊オ)

 人は生まれて次第に成長し、物心がついてきますと、自分の見たこと、聞いたことを振り返って考えて、その経験したことをどんな順序で繰り返せば、いつも同じ結果を手にすることが出来るかを思考するようになります。

 この記憶とその整理の働きが出て来る元の宇宙を、母音オの宇宙(言霊オ)と名付けました。この働きが高度になったものが学問であり、科学と呼ばれるものです。 経験事項の抽象的概念による把握表現の世界、といえば学問的な表現となります。それは経験知の世界です。

 「余韻が尾を引く」「生命の玉の緒」の尾や緒は、この宇宙の意味をよく示した言葉であります。

●アの宇宙(言霊ア)

 この宇宙から発現してくるのは、人間の喜怒哀楽の感情です。純粋な愛の世界でもあります。この感情が出て来る元の宇宙を言霊アといいます。この世界は、言霊ウの欲望とも言霊オの経験知とも趣を全く異にした世界です。

 「あぁ」は感嘆する言葉ですし、阿弥陀・アーメン・アラーなどのアは世界的に共通した感情の世界を表わす音ということが出来ます。この宇宙から宗教や芸術の活動が出てくるということが出来るでしょう。

●エの宇宙(言霊エ)

 今までに挙げました言霊ウ・オ・アのそれぞれの宇宙から現れてくる欲望、記憶、感情は人の心の中で時には相争い、また時には協調したりします。これら三つの性能は、常に勝手に自己主張して心に葛藤が起ります。この時、人は今どのような生き方をすればよいかの選択を迫られます。

 感情のおもむくままに進むか、過去の経験を生かすか、それとも欲望を先にするか。さぁ、どうしよう。それらをどんな按配で選択したら良いかという知恵である実践智が出てくる元の宇宙、これをエの宇宙、言霊エと呼びます。

 人が「えらぶ」(選)働きが出てくる元の宇宙であります。この言霊エからの働きが社会的なものとなったのが、道徳と政治活動ということが出来ます。

 現代人は、この今、ここでどうしたらよいかの実践智と、先に挙げた過去の記憶を整理する経験知とを混同して取扱いがちです。けれど経験知と実践智は全く異なった人間の性能であり、両者が相異なったものであるということを知っているだけでも、生きていく上で相当な得をすることになりましょう。

 何故なら、人が迷うということは、その人の持つ経験知の中から、今、どれを採用すれば良いかで迷うからです。その時、経験知と実践智とは全く違うものだ、と知っていれば「下手な考え休むに似たり」と迷うことを止め、白紙に返すことが出来ます。白紙に、すなわち出発点に帰れば、必ず人間の実践智が働き出し、進路は整然と決定されるでしょう。

●イの宇宙(言霊イ)

 この宇宙は今まで説明してきたウオアエの四つの次元と違い、説明し難い宇宙なのです。それをあえて説明すると次のようになります。

 言霊ウ・オ・ア・エの四つの次元の宇宙を縁の下の力持ちとなって支え、動かし、さらにそれぞれの現象を言葉として表現するところの、人間の創り出す意志の働きが出てくる元の宇宙、とでも言ったら良いでしょうか。

 人間はこの生きる意志があって初めて、他の欲望も経験知も感情も実践智も働くことが出来るということです。「人間が生きる」「居る」とはそういうことなのです。人が生きるための最高位の性能です。

 以上で一口に心の宇宙と呼ぶものが、実は五つの母音が当てはめられる五次元の宇宙から出来ていること、その五次元について低次元から高次元へとその内容を説明してきました。

 五つの次元の宇宙はそれぞれ特有の無音のエネルギーが充満していて、しかもそれ自体は決して現象として姿を現わすことのない実在なのです。人間の精神の働き は、この五つの次元の宇宙の中で行われ、この五次元以外の宇宙は存在しません。

 人の心はこのウオアエイの五次元の宇宙の重畳(たたなわり)を住家とします。それが語源と なって、人の住むところを日本語で五重すなわち家、というわけです。

gojyu この宇宙のウオアエイの五つの次元構造を、東洋では概念化して、木火土金水の五行(中国)とか地水風火空の五大(インド)などと表現しています。仏教のお寺にある五重塔も人間精神の五次元層を暗示した建造物であります(図参照)。

●半母音(言霊ワヲウヱヰ)

 以上で母音についての説明を一応終えることにして、次に半母音の言霊の内容を簡単に説明しておきましょう。

 母音のアイウエオの言霊が、見る方の主体の五つの次元の宇宙とすると、半母音ワヲウヱヰは見られる方の側の客体の五次元の宇宙ということになります。母音と半母音とは、自と他、主体と客体、出発点と終着点、吾と汝といった関係です(古代大和言葉では吾をア、汝をワと呼びました)。

 母音の言霊も半母音の言霊も精神の先天的なものですから、そこから現象を生み出しはしますが、それ自体は決して現象として現れることはありません。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
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◆/104日目:あめつちのはじめのとき/

今日は、『あめつちのはじめのとき』を復習したいと思います。

/あめつちのはじめのとき /

言霊学(コトタマノマナビ)は遥か大昔より日本に伝わる、人間の心と言葉に関する一切を解明した学問です。昔これを布斗麻邇(フトマニ)と呼びました。

この学問は訳あって今から二千年程前、崇神天皇によって世の人の表面意識から隠没させられ、約百年前、明治の時代になってその復活の運動が始められました。

当言霊の会は二十数年前、諸先輩の復活の事業を受継ぎ、今年(二○○八年)になって、漸くこの学問の理論的解明と人間の心の動きに基づく確認によって、完全な復活を実現することが出来ました。人類の心の真理が二千年の闇を越えて今不死鳥の如くこの世に姿を現わしました。

言霊の学問をその隠没から解明への研究を可能とさせる唯一の拠り所であり、教科書となるのは日本で最古の本とされる古事記(記)と日本書紀(紀)の神話です。

こう申し上げますと、記紀の神話を少しでもお読みになった方は当然次のような疑問を持つことでしょう。「あの訳の分からない神様の名前が果てしなくズラズラと現れてくる文章から体系的な学問など現われて来る筈がない……。」

これは当然のことです。そして“当然”と人が思われる根拠が古事記の神話の最初の文章、「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神、(あめつちのはじめのとき、たかあまのはらになりませるかみのみなは、あめのみなかぬしのかみ)……」でありましょう。

現代人は誰でも「天地(あめつち)」と聞けば、天と地、この地球を含めた宇宙全体のことと思うに違いありません。ですから、その地球生成の現代科学が教える四十五億年前だという事実を知る由もない私たち先祖の文章は、昔の人特有の大らかな感性によるおとぎ話だととるのが当たり前かも知れません。

けれど大昔の私達の祖先の心の中を見る目は、私達が想像もつかない程素晴らしいものがありました。「古事記」が言う最初の言葉、「天地の初発の時、……」とは私達が考える「外界宇宙の中にこの地球が生まれる時」なのではなく、「心の宇宙の中に何か人の考えが生まれ出ようとする時」ということなのです。

昔は理論的な考え方の概念としての言葉がありませんでした。そのために「心の宇宙」という代わりに「天地」という言葉を当てたのです。そしてその宇宙の中に何かの出来事が起ころうとする時のことを「天地の初発の時」と表現したのです。

以上のことに気が付きますと、記紀の神話の文章とその中に次々に出て来る神様の名前が示す内容が私達人間の生きた心の構造とその内容の全部が掌(て)にとるように語られていることが理解されて来ます。

理解が深まる毎に神話の一字一句一行が、忽(ゆるが)せに、出来ない心と言葉の真実を語っているのだと気付くことになります。

当言霊の会は、諸先輩の労作を受継ぎ、二十年にわたり神話で示す心と言葉の真実の把握のために研究し、解明の結果と毎月一回の会報にて皆様に報告して来ました。今年(二○○八年)四月、古事記、日本書紀の神話が伝えるアイウエオ五十音言霊布斗麻邇の原理のすべての解明を完了いたしました。

日本人にとって、また世界の人々にとりましても、素晴らしい出来事と思い、その実践にめぐり合った自分の仕合せを思います。またこの上ない学問と後世の私達に遺して下さった日本人の祖先の皆様に感謝し、この成果を現代の人々にお伝えしたいと考えております。

お読み下さる文章の内容に少しでもご不審がありましたら御遠慮なく御質問下さい。但し、論争はいたしません。当「言霊の会」は宗教団体でも思想団体でもありません。単純な学問の研究団体であります。お頒する本代(制作実費)以外一切無料です。

ご愛読下されば幸甚であります。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
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と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/105日目:日本語のルーツ その1・2/

今日は、『日本語のルーツ』を復習したいと思います。

/日本語のルーツ その1・2 /

日本語のルーツ その1・2

 今は世を挙げて国際化の時代、横文字は町に氾濫している。その一方日本的伝統への指向も消えてはいない。羽織・袴・振り袖・打ち掛けの姿は結婚式で見られるし、茶道・華道・能楽・歌舞伎・相撲等も盛んである。

 しかしこれら日本的と思われるものもその歴史を調べるとたかだか数百年乃至千年程に過ぎない。日本人はこの列島にそれよりずっと以前から住んでいたのであるから日本的なものはそれ以前から存在していた筈である。

 それではもっと日本的なものは何かと考えるとそれは日本語ということになる。私達が日常しゃべっている日本語程日本的なものは他にはない。

 日本人が日本人であることの証明であるといっていい日本語について現代の日本人は余りにも知らな過ぎるのではないか。日本語は何時頃どの様にして作られて来たのか。誰も知らないようである。

 日本語のルーツを求めて昭和六十二年春東京で大規模な研究会が開催され、日本は勿論外国からも大勢の学者・研究者が集まって十日間にわたって熱心な討論がかわされた。その結果結論は「不明」ということになったと新聞で大きく報道されたものである。

 多分言語学その他の学問のあらゆる理論を使って討論が行なわれたに違いない。にも拘わらず日本語のルーツを探すことが出来なかったのは何故か。更に深くこの問題を掘り下げて考えて見よう。理由として大きく分けて二つのことが考えられる。

 その一つは日本語が作られる過程に最も厳密な原理・原則が存在しており、現代の言語学の考え方では容易にはその原理の領域に入って行くことが出来ないことである。

 もう一つは日本語を制定する原理・原則そのものが日本の歴史のある時代にその時の為政者により文明経営上の大きな意図の下に故意に日本人の表面意識から隠されてしまったことによるのである。

 今より以上のことを明らかにしながら日本語のルーツに迫ってみようと思う。それによって読者が日本語の内容の素晴らしさに気付かれるならば幸いである。

 日本語が作られるのに厳密な原理・法則があったなどといえば現代の学者からは多分冷笑か失笑でもって迎えられるであろう。更にその原理がある時代を劃して隠没させられたといえば気違い扱いを受けること間違いあるまい。

 しかしその日本語制定の原理が発見され昔あった如く復元公表された現在、それは事実なのであり、人が自己の先入観を一応脇に置いて虚心坦懐示される原理の中に踏みわけていくならば百パーセントの理解を得られることは確実なことである。

 日本語が作られた根本原理は古代に於いては布斗麻邇(フトマニ)と呼ばれた。現在我々はアイウエオ五十音言霊(コトタマ)の原理と呼んでいる。フトマニというと太占を連想し古代に於ける鹿の肩骨を焼いて出て来た紋様による占いと思われがちであるがそうではない。

 この原理の出処原典は何か。奈良時代に撰述された古事記・日本書紀の神代巻である。原理を故意に隠没させたことを示す歴史的事件とは何か。神倭朝第十代崇神天皇の時における三種の神器の同床共殿制度の廃止と伊勢の皇大神宮の創祀の事実である。そうはいってもこれだけ述べたのでは読者は何のことだか分かるはずはない。

 そこでこれより日本語の原典であり原理である言霊布斗麻邇の原理の内容に立ち入った立場から日本語成立の経緯とその変遷の歴史を述べることによって読者の理解を求めようと思う。

 生物学的に見た大昔における人類の生活は野山の獣とそれ程変わらなかったことであろう。それが多分一万年以上程も以前のことと思われる時から人類は自己の心が存在するということに気付いたのであった。そして心とは何かの探究が始まった。

 場所は何処か。古事記に高天原とあるから多分地球上の高原地帯チベット・インド・アフガニスタン辺りの高原地方ではなかったか。人類文明の揺籃時代である。文明とは何か。言葉と数と文字である。

 言葉は文明の母(いろは)であり、数は文明の父(かぞ・かず)である(昔の日本語では父をかぞ、母をいろはと呼んだ)。この探究は長い年月がかかったことであろう。今日隆盛を極めている物質科学文明の生長のために人類は三、四千年を費やして来たが、太古は悠長な時代であったろうからもっと長い年月を要したに違いない。

 遂に人類は自己の内面に存在し絶え間なく変化活動している心の全貌を解明し、それを言葉として表現することに成功したのであった。人間の心の構造とその活動の法則としての言葉の原理の完成である。

 その心と言葉の一致した原理によれば精神の根本要素は丁度五十個ある。その夫々にアイウエオ五十音の単音を当てはめて麻邇(マニ)又は言霊(コトタマ)と呼んだ。キリスト教のマナも仏教の摩尼(宝珠)も同意味の世界語である。

 五十個の内訳は現象として発現する以前の先天部分の要素十七個、現象として発現した後天の最小要素三十二個、それらを文字として表わす要素一個、合計五十個である。更にその五十個の活動運用の基本動作が五十あり、総合計百個の原理である。

 このことは科学が物質の構造を先見部分として原子核内の素粒子乃至電子を、後天構造の最小単位として各原子を発見し命名したことと比較すれば理解し易いかも知れない。物質と同じく心もまた原子核内要素・電子、それに原子に相当する要素によって構成されているのである。

 精神の要素を人間の発声する単音と結合させ、精神であると同時に音声である要素として自覚し、精神の原理即言葉の原理である言霊の原理を完成させたのであった。後述する古代日本語の大和言葉はこの五十音の組み合わせによって作られる。

 次に発見された原理を簡単に述べよう。先ず精神の先天構造は十七個の言霊で構成される。(図003-A)頭の中に何の発想も起こらない時、図に示される如く精神宇宙そのままである。○で示される。禅でいう空である。この空なる宇宙は何も起こってはいないけれどすべての現象がそこから起こるエネルギーに満ちた宇宙である。

 この宇宙の中に何かが起こり始める。現象が起きるきざしとして先天部分に何かが起こったこと、その最初の動きの存在にウと名付ける。言霊ウである。言霊ウがどんな内容の音であるか。ウをふりがなして見ると有(う)・生(う)・動(う)・有(う)の如くその意味内容を窺い知ることが出来る。一面白一色の雪がまだ消えぬ春の初め自然の眠りから覚めて一番に咲く花はウの眼又はウの芽即ち梅という名が付いたのも言霊の原理によっている。牛(うし)馬(うま)の名前も言霊シ・マの内容が分かって見るとその絶妙な命名に驚嘆するのである。

 ウの次にアとワが出て来る。これはやがて主体と客体の自覚となる大本の存在である。ウとしてきざしたものが、それは何かなという思考が働くと同時に考える方の主体側と考えられる側の客体側に分かれる。主体側がアで客体側がワである。吾(あれ)と汝(われ)である。

 このようにして先天部分の精神構造は合計十七個の言霊から成り立っている。詳しくは当会発行の「言霊」原理編を参照して頂きたい。先天の十六番目に出て来る言霊がイであり、十七番目がヰである。言霊イ・ヰは人間生命の根本意志である。

 古事記にはこの言霊イ・ヰを説明するために神の名前を当ててイザナギノ神・イザナミノ神という。先天構造の最後に出て来る生命意志の働きでいよいよ後天の現象である子音が創生されることとなる。人間は仕事を始めるときに、イザ、と掛け声をかける。イは十六番目の言霊である。十六夜をいざよいと呼ぶ語源である。

 時が来て高天原のフトマニ言霊の原理の自覚者(霊知(ひしり)の中から選ばれた人々がその生命の原理を基礎とした理想の社会を創造するために平地に下って来た。古事記はこれを天孫降臨という。そして最終的に落ち着いた所がこの日本列島であった。霊知りによる理想社会の建設が始まった。言霊原理に則り物事の名前が創られ伝え広められていった。文化社会の始まりである。物事に対して名を付けること、それを広めること、伝承して行くことが文化である。

 さて理想社会とはどんな世の中かについて一言しよう。人類は長い間心の底から熱望しながら実際にはますます理想とはかけ離れた世の中に住んで来たために理想世界とは何かの定義を忘れてしまっている。理想社会の内容を端的に言えばそれはあらゆる物事の名前がそのまま事物の実相を表わして何人によっても間違いなく了解されることが出来る社会である。

 平和という言葉がある。この言葉程多くの人々から憧憬されながらこの事のためにどれ程多くの人の血が流された言葉はない。或る主義の人達にとっては押し付けた平和であり、或る人達には押し付けられた平和であったからである。「平和を闘いとろう」などよく聞く言葉である。

 言霊による大和言葉の平和を示す言葉は唯一字ワである。ワは和であり輪である。輪の曲線の上の一点に立った二人が意見の相違を生じる。お互いに自分の主張を述べれば述べる程曲線状の一点から反対方向に走って行き両者の距離は遠くなって行く。

 両者が夫々自己の内容をとことん調べ尽くし主張し尽くした時、再び両者の間に友情が生まれ、輪の反対側の一点に於いて両者は再会する。手を握り合う。これが和である。(図003-B)人々の内容・意見が悉く置き足らわしてしかも全体として調和する。これが言霊ワの内容である。

 それ故初めの意見の相違は更に大きな調和をもたらすための研究過程であって単なる争いではない。言霊ワの生命構造に於ける意味を自覚するならば、和の意味は実相として捉えられ、争いに逸脱することは全くあり得ない。ワは結論であり、実相そのものである。

 そこに別の解釈を必要としない。この時意見の相違だけを区切って取り上げ、その時点で平和とは何かを考えると思考は何らかの概念が入り込んでくる。概念には種々の解釈が伴っている。そこに争いが起こることとなる。この争いが和を得るまでには幾多の悲惨時と時間の自然的経過を必要とするのである。

 このように実相がそれ自体に具備していない言葉、聞く立場立場で如何ようにも解釈出来るアイマイな言葉を昔くちなわ(口縄)といった。蛇にたとえられている。キリスト教ではこの口縄(蛇)にイブが誘惑されアダムと共に知恵の樹の実を食べエデンから追放されたと教えている。

 これに反し精神の要素と言葉の要素が融合した言霊とその結合によって命名された言葉即ち大和言葉はそれ自体が直接に事物の実相を表わしているから解釈によって相違することがない。かかる言葉は世界中で大和言葉唯一つである。大昔この言葉が世界中に流布されて「世界は唯一つの言葉であった」と聖書に書かれたのである。

 又この言葉はマナと呼ばれ「マナは神の口より出ずる言葉なり」「言(ことば)は神なり」とも言われた。仏教では摩尼と呼ばれ「仏の言葉は異なることなし」(法華経)と書かれている。

 人間は単に情報の伝達にのみ言葉を使うのではない。頭の中で考えるのに言葉を使う。言葉を使うことこそ生きるということであり、言葉は生命であり、神である。その言葉が直接に真実を表現する言葉であるのと、概念というベールを媒介として解釈せねばならぬアイマイな言葉であるのとの差が、一方では理想社会を他方では暗黒社会を現出させるのである。

 かくて世界は言霊原理に導かれた平和な精神文明華やかな時代が数千年続いたのであった。各民族の神話はすべて太古に於いて神代と呼ばれる理想社会が存在したことを伝えている。それはおとぎ話ではなく実話なのである。

 以上がこの文の冒頭に述べた「何故現代の言語学的研究が日本語のルーツを解明出来ないか」の第一の理由である。人間精神の先天と後天の構造をすべて明らかにし、その要素に五十音の一音一音を当てはめ、言葉即実相のマニの原理を発見し、その結合によって事物に命名した古代日本語のルーツを明らかにするのに概念的思考である現在の言語学の手法は余りにも力不足であるからである。

 そのルーツが仏教で言う空の更に奥にある処の真理に属している事を知らぬ限り、その内部に踏み入ることは不可能なのである。

/日々の生活の中では/

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◆/106日目:日本語のルーツ その3/

今日も、『日本語のルーツ』を復習したいと思います。

/日本語のルーツ その3 /

日本語のルーツ その3完

 次に日本語のルーツ解明が困難である第二の理由となる精神文明の中核である言霊の原理の故意なる隠没の話に入ろう。言霊の原理を精神文明の基礎として日本を中心に世界の平和な時代が永い間続いた。

 人類の第一の文明としての精神文明完成時代である。民間に伝わる古代史竹内古文書にはこの間日本の皇室はニニギ皇朝・ヒコホホデミ皇朝・ウガヤフキアエズ皇朝と続いたと書かれている。一代の皇朝には何人何十人の天皇が即位された。丁度神武天皇より現天皇まで百二十四代を神倭(カンヤマト)皇朝と呼ぶのと同様である。

 ヒコホホデミとは言霊(ヒコ)の実りの文化(ホホ)がたわわに現われ出た(デミ)時代という意味である。精神文明完成の時代であったことを示している。次に続くウガヤフキアエズ皇朝は精神文明の爛熟期であった。と同時にその名が示す如く精神文明に加えてもう一つの文明即ち物質文明探究の萌芽が出ようとする時代でもあった。

 その名は感覚・現識(ウ)に基づく文化(神屋・カヤ)即ち物質文明がまだ完成されていない(フキアエズ・葺不合)事を示している。事実三、四千年程前日本朝廷に於いて人類文明創造の方針に大変革の決定がなされたのであった。人類は一万年前心とは何かの探究を始め、やがて精神文明の華を咲かせた。今や物質とは何かの研究を始める時が来た、というわけである。

 物質探究促進の精神基盤は生存競争である。精神的平安安心の土壌には生存競争など起こりようがない。他より一刻でも早い発明発見を得ようとする競争が科学文明促進となる。急速な科学の進歩を促すためには精神文明の中核である言霊の原理即ち言葉の原理を一時的に社会から隠没させるよりよい方法はない。

 ウガヤフキアエズ皇朝の末期この大方針が決定され、世界中にその施策が行なわれた。世界の精神文明の成果を示すほとんどの施設・史跡は破壊され姿を消して行った。焚書とは中国ばかりでなく世界各地で行なわれたものである。民族の神話が書かれ、そのなかで人類の第一の文明である精神文明の存在した事実が単なるユートピア的神代の物語として書かれることとなった。

 その後の外国における事態の変遷は省略して日本国内の歴史的事実を取り挙げよう。日本に於ける精神と言葉の原理である言霊フトマニ隠没の政策を決定したのは神倭朝第一代神武天皇であり、その実際の実行者は第十代崇神天皇であった。

 同じ政策の決定者・実行者であるため神武天皇と崇神天皇は「御肇国天皇」(ハツクニシラススメラミコト)と同じ名前で呼ばれるのである(日本書紀)。百二十四代にわたる神倭皇朝の使命──言霊フトマニの原理の隠没による物質文明創造促進の政策の一翼を担う──の始まりである。

 日本書紀崇神天皇の章に「是より先に、天照大御神・倭大国魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭(いはひまつ)る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鋤入姫命に託(つ)けまつりて、倭(やまと)の笠縫邑(むら)に祭る」とかかれている。伊勢神宮のはじまりである。

 この事件を同床共殿制度の廃止という。この時まで人間精神の理想完成体を五十音言霊の配列で示した天津太祝詞音図を天照大神として歴代天皇の御座所に斎(いつ)き祭っていた。ということは天皇自身が言霊フトマニの原理を自覚し、その原理に則った政治の実現・実行者であったことを意味する。天皇は聖(霊知り)であった。

 その原理を御座所から遠ざけ神として信仰の対象として祭ったということは、天皇が言霊原理の自覚体得者でなくなったことを示す。その時以来日本人の意識から急速に言霊原理の存在は薄れて行き、二千年の歳月が経つ。言霊原理は厚いベールの中に奥深く隠されてしまったのである。これが現代人にとって日本語のルーツすなわち言霊原理に到達することを困難ならしめている第二の理由である。

 しかし時の為政者は唯単に原理の隠没を図っただけではなかった。原理の隠没はそれによる精神荒廃・生存競争の時代を現出させ物質科学追求の基盤を作るための方便であるから、人類が物質探究の完成を遂げた暁には再び精神と言葉の原理は蘇らなければならない。その原理復興の将来に備えての施策も同時に行ったのである。その主たるものを二つ述べよう。

 その第一は伊勢神宮創建に当たっての本殿造形の妙である。伊勢神宮本殿の構造を「唯一神明造り」という。時来り将来言霊の原理が人間の意識に再び蘇るのに備えて本殿の建築構造は五十音言霊図のうちの天照大神を表す天津太祝詞音図を象(かたど)る形に設計されている。

 千木・鰹木(数招・カズオギ)・階段の数等すべて五十音図の象形である。正に唯一なる神の実体が明らかとなる造り方である。特に本殿中央にご神体として立てられている忌柱(いみはしら)(真柱)の祭り方は意味深長である。忌柱は長さ五尺の白木の柱であり、その内の二尺が地表下にある如く立てられている。

 五尺の数意は一尺づつ区切ると上より言霊母音アオウエイを表象する。アは感情(宗教・芸術)、オは悟性(学問・科学)、ウは現識・欲望(産業)、エは英智(道徳・政治)、イは生命意志(言霊フトマニ)を表す次元宇宙である。言霊原理が単なる信仰の対象として祭られて以来、その生存競争の時代には言霊エと言霊イの二つの次元は人間社会の自覚の表面から時来る迄隠没するとの黙示である。誠に心憎いばかりの造形である。(詳しくは「コトタマ学入門」参照のこと)

 言霊原理の蘇りにそなえた施策の第二は奈良朝における古事記・日本書紀の撰定である。同床共殿の制度廃止後七百年奈良時代に入り、言霊原理の将来に於ける蘇りに備えて古事記・日本書紀の編纂撰上が行われた。古事記と日本書紀の神代巻は神話的歴史の形をとっているが、実は神話でも歴史でもなく言霊フトマニの原理の教科書なのである。今簡単に解説しよう。

 「天地の初発(あめつちのはじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。……」

 古事記神代巻の始めの文である。ここに言う「天地の初発の時」とは天文学的・物理学的・生物学的な宇宙の始まりのことではない。人間の心の中に発想が始まる常なる今・此処のことである。古事記神代巻が人間精神内部の構造の書であることに気づかねばならない。まだ何も起こらない心の宇宙を高天原という。そこに先ず何かが生(う)まれ動(うご)く。この自覚態が言霊ウである。

 古事記は天の御中主神と呼ぶ。心の宇宙の中心にやがて我なる主人公の自覚となる実在の意である。読者が心の中を顧みて常なる今・此処の心の初めの動きを把握するとき、天の御中主とは何と絶妙な名前を付けたものかと驚くのである。

 この初発の意識が分かれて言霊アとワになる。古事記は高御産巣日・神産巣日と呼ぶ。言霊ア・ワから更に進展して言霊オエヱヲが現出する。かくて次々に五十個の言霊が生まれて来るが、古事記は言霊自体を書かず、その代わりに五十の神の名を登場させ、その神名の指し示す意味によって将来研究者が個々の言霊を自覚出来るよう神の名前に工夫が施されている。

 例えば言霊エを示す神名は国常立神(くにとこたち)である。國家が恒常に成り立つ実体の意味である。言霊エの次元から道徳・政治が現象して来る事を考えると神名の付け方の正確さが理解出来よう。古事記には天御中主神より建速須佐男(たけはやすさのを)命まで丁度百の神名が出て来る。

 前半の五十神は五十個の言霊を示し後半の五十神は精神の基本運用法を示す名が付けられている。以上古事記神代巻の意図について解説した。尚日本書紀は古事記の言霊解説を補足する意図で作られたものである。かくて精神文明の原器である言霊原理が隠された結果、爾後の世界並びに日本に於いては弱肉強食の生存競争の社会が現出した。

 この社会を指導する基準は言霊ウ・オ・アの次元(欲望・悟性・感情)の三性能のみであり、人間の最も霊妙な性能言霊エ・イ(英智と生命意志の原理)は人間の自覚から完全に埋没した。従ってその原理によって制定された日本語のルーツも日本人の脳裏から忘れられたのであった。

 生存競争社会の現出による物質文明創造促進の政策は成功した。人類は三千年の努力により現在見られる如き物質科学の成果を手にする事が出来た。人類の第二の文明である物質文明の華は咲いたわけである。それは同時に三千年間人間の意識から隠没されていた第一の文明である精神文明の心髄言霊フトマニが人類の自覚の表面に再び浮かび出るべき時である。

 そうでなければ人類生命の調和は保つことが出来ない。幸い近代に入り先ず始めに言霊の原理に気付かれたのは明治天皇であった。天皇は言葉の誠の道として側近と共に研究され、以来現在まで古事記・日本書紀を基礎とした言霊の解明は進み、当会報で示す如くその精神即言葉の原理の全貌を世の人に呈示する事が出来るまでになった。

 物質構造の先天の学である原子物理学が創始されたのは明治時代であった。その同じ時代に精神構造の先験の学である言霊フトマニが再び人間の意識に蘇ってきたことは、人類の文明創造の歴史が大きな生命意志の一筋の流れの現われであることを示すものとして興味深いことである。

 私達日本人が日常何の屈託もなく話している日本語が以上述べたような構造と変遷の歴史を持っていることを知る人はまことに少ない。しかし将来物質構造の解明と並行して人間精神の構造の研究が進む時、その研究の仕方は如何に多様であっても、突き止め得られた心の最小因子の真実を何の概念説明もなく直截簡明にずばりと表現する方法はアイウエオ五十音言霊以外に存在し得ないことに世界が気付く時もそう遠い将来ではあるまい。

 日本語はあらゆる意味で精神的には勿論又将来科学真理(例えばコンピュータ)との結び付きに於ても素晴らしい言葉なのであることを日本人に知って頂きたいものである。そのことが日本人が最も日本的なものを知り同時に世界の中での真の役割を知る道なのである。

 話が原理的に過ぎた嫌いがある。個々の日本語の言霊的意味を説明しよう。人の住む建物を家(イエ)という。語源は五重(イヘ)である。人間の変転極まりない心(コロコロが語源)は五つの重畳の次元宇宙アイウエオ五母音より発現して来る。人間の心の家は五重(イエ)なのである。

 「あおによし」は奈良の枕詞である。現在の如何なる辞書にも「意義不詳」つまり分からないと書いている。しかし言霊の立場からは意味は明瞭となる。言霊アは感情の世界。言霊オは悟性の世界。アから宗教芸術が、オからは学問が現出して来る。「あおによし奈良」とは宗教・芸術・学問が盛んな奈良の都ということである。

 【収載】第三号(昭和六十三年九月)完

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◆/107日目:新しい革ぶくろ /

今日は、『新しい革ぶくろ』を復習したいと思います。

/新しい革ぶくろ /

新しい革ぶくろ

最近地球エコロジーの問題が新聞・テレビを賑わしています。地球温暖化の事実が手を拱いてはいられない事態になってきた事に漸く気付いたためでしょう。

ここ五十年間で地球は急に狭くなりました。小遣いを貯めれば誰でも外国旅行を楽しめるようになりました。昔は出掛ける前に親子水盃を交わしたものです。ポケットに入るケータイで世界中の誰とでもオシャベリをすることが出来ます。昔はまるで夢のような話だったのですが…。

このように人間の生活が便利になったのは数千年にわたる人類の物質科学研究の成果の賜です。確かに科学研究は便利という美しい花で地球上を覆い尽くしました。けれど此処に来て人類は自らの進路に暫くストップをかけなければならなくなりました。

大層便利な生活をプレゼントしてくれた科学は、同時に地球環境の破壊(温暖化等)と人類全体の生命の脅威(原水爆問題)という抜き差しならない課題をももたらしたことが分かったからです。

科学がもたらした災害は科学によって乗り越せばよい、と多くの人は考えるでしょう。でもそれは無いものねだりというものです。科学する心は長い間の弱肉強食の生存競争社会という土壌の中で育ちました。社会の中を勝ち抜いて行くために力を発揮することはあっても、科学自らをどう使ったらよいか、に関しては全くの盲目なのです。

科学の成果を更に発展させ、災害を乗り越すため精神原理を今の人類は持ち合わせていません。人類が眼前に迫った自らの大きな節目の時を乗り越えて人類全体が生き甲斐のある新しい文明時代を建設して行くためには、「新しい酒は新しい革嚢に」、新しい精神が必要です。

議論と闘争の世を光明と英智の時代に渡すことが出来る世界唯一の新しい創造精神を紹介申し上げます。

新しい精神と申しましても、これから考えて作り上げる精神ということではありません。遠い々々大昔、日本人の祖先が人間の心の構造とその働きをすべて解明し、その法則の下に日本語を制定し、この日本列島を永遠の住家と定め、地球上を楽土とする歴史の方策を決定し今日にいたるまで経綸を行なっている古くて、しかも永遠に新しい精神のことであります。

名前をアイウエオ五十音言霊学、昔は単に布斗麻邇(ふとまに)と呼びました。このお知らせをお読みになり、興味を持たれた方は当「言霊の会」にご連絡下さい。御勉学の方法をお伝えいたします。先にも申し上げましたが、当会は宗教・信仰団体でも、思想団体でもありません。団体行動もいたしません。ただひたすら勉学の会であります。

コトタマ学は人間の心と言葉に関する一切を含めた膨大な学問ですので、一口にどのように学べば良いのか、大いに戸惑うところでございましょう、コトタマ学会報集成書上下巻からエピソードをピックアップしながらご紹介してまいりましょう。

魂の変態について その1

蝶は成虫となるまでに幼虫─蛹─成虫と三態の変態をする。辞書で変態(metamorphosis)の意味を調べると「形を変えること。生物学的には個体発生の途中で、親と全然異なった形を取ること」とある。この意味では人間は変態はしない。

赤ちゃんから成人し老人となるまで形の上では蝶に見られるような著しい変態はない。しかし人間の魂は五態の変化が可能である。以下人間の魂の五段階の変態について考えることとしよう。蝶はその蝶が生きている限り幼虫─蛹─成虫と自然に変態する。

しかし人間の魂の変態はその人間が生きている間に自然に起こるわけではない。その人が希望し努力して初めて変態が可能となる。一生の間初めの段階から変態進化しない人間もいる。

まず人間の魂の初段階は五感覚を基礎とした欲望の世界である。赤ちゃんは腹が空けば母親の乳房を吸う。成長するにつれて玩具を欲しがる。綺麗な服を着たいと言う。更には金がほしい、地位が欲しい、名誉を得たいと欲望はエスカレートする。皆五感覚を基礎とした欲望の所産である。欲望には限りがないから人によってはこの欲望の段階だけが人間の心の世界だと思い、一生をこの世界だけに暮らすこととなる。

この人にとって人間の魂の変態して行く他の段階である学問・感情・道徳等は自己の欲望を達成するための手段であるに過ぎない。その典型を現代の政治家に見ることが出来る、と言ったら失礼になるであろうか。

変態の第二段階は学問の世界である。第一の欲望の世界で出会った出来事を経験として、それら経験と経験との間の相互関係を考えて行く段階である。一般にはこの作業を学問・科学と呼んでいる。かく行ったらかく成った。だから今度そう成りたければ、かくしたらよい。これが学問の始まりである。

子供が成長してこの知恵がつくことを物心がつくという。小学校から中学・高校・大学と進む毎にこの知恵が体系化して来て、学問・科学の形が出来上がって来る。第一の欲望経験を掌握してそれを体系化したのが学問である。ここで人間は個々の体験の立場から理論的体系の段階へ進化変態したこととなる。

近代の大型産業化がその典型である。このことから人間の魂の進化変態というのは、一つの段階の出来事を体験によって総合して、それによって今迄の世界とは全く異なった世界に飛躍することと言うことが出来る。それは蝶が幼虫である芋虫から形の全く違う蛹に変態するのと同様である。

人間の魂の変態の第三段階は感情の世界である。と言うと読者は疑問を持たれるであろう。感情は確かに第一段階の欲望とも第二段階の学問とも異なったものではあるが、人間は生まれた時から感情は持ち合わせている。今殊更に第三段階の進化として感情の世界を持ち出すのは何故なのか、と。

人間は感情の動物だなどと言われる。感情のない人間はいない。けれど感情の世界はこれだ、と純粋の感情の世界を指摘して取り上げることの出来る人は居るであろうか。大方は欲望と理論と感情がごちゃ混ぜになって区別が付かず、自己のコントロールが効かずに暮らしているのが実情ではなかろうか。

ここで言うところの魂の第三段階の変態の世界とは、自分の感情がよって生まれて来る大本の世界をはっきり認識した境地のことを言うのである。

この第三の境地への変態はどうしたら可能なのであろうか。
純粋な感情の世界に入るためには宗教的または芸術的な修行が必要である。従来宗教とは心悩めるものの慰めのために存在すると思われてきた。前

勿論その効用もないわけではないが、真実には人間の魂の五段階の変態のうちの第二から第三の段階への変態の修行の方法を説くものとして最も重要な存在意義がある。その修行は、第二の学問の段階の修行が進歩の学であるのに対し、これは退歩の学と言うことが出来る。

学問は身につけるという。身につけたいろいろな知識や信条は自我を形成する。自我の内容である知識や信条が大きく深くなる程学問は進歩し価値を増す。それに反し第三段階の道は身に付けた知識を再点検して、それらの知識は自我の身の廻りにつけた着物なのであって自我そのものではないと心の内に否定して行く道である。

「汝ら翻りて幼児の如くならずば天国へ入るを得じ」
「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」

これらの教えは皆第三の段階へ変態するための方法を示すものである。こうしてその退歩の修行の末に出会うものは、その昔自分が無自覚に赤ん坊として広い宇宙の中へ生まれ出て来たその宇宙が、実は自己の意識の本体そのものであると自覚認識される世界である。

自我の束縛から解放されて広い宇宙と一体となる。この時人間は、丁度蝶が脱皮変態するが如く小さい自我の皮を破って自由な天地に飛び出す変態の様子を実感するのである。

飛び出した宇宙は果てしもなく広い宇宙であり、そこには仏教で寂光の浄土と呼ばれる如く和やかな温かい光が満ちている。そこでは従来色と思われていたものは全て光である。赤い色とは実は赤い透明な光であった。「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光…」とある阿弥陀経の意味が文字通り了解される。

ふと我に返ると小さな小さな自分を抱いて生かして呉れる宇宙の愛が心の底からの幸福感・安堵感となって感ぜられる。従来自分が勝手に生きていると思っていたその自己が、実は大きな愛に抱かれて生かして頂いている事を悟る。この世界が感情の発露の世界であり、芸術・宗教の心はこの宇宙から発現して来ることが理解される。

…続く

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◆/108日目:魂の変態 その2 完 /


今日は、『魂の変態 その2』を復習したいと思います。

◆/107日目:魂の変態 その2 完 /

魂の変態 その2 完

先の第三の段階の世界では、第一・二の段階の束縛から離れた自由な解放感の気分を味わうことが出来る。しかしこの自由解放は四六時中続いているわけではない。宗教的修行によってこの自由を得た人は、自己一人に於いては束縛から離れて自由である。しかし社会には自分だけでない、まだ不自由な我(が)に生きている人間が沢山居る。この中に入れば元の木阿弥に帰ることとなる。

芸術家も芸術活動に没頭している時は美の世界に自由に遊ぶことが出来るが、それ以外の時間は従来の煩わしさに帰らねばならぬ。具象の絵を修めて美の世界を究めた後は社会の現象に自己の思うがままの想像力を働かし、抽象の絵の中に遊んだのがピカソであった。宗教家の中には限られた時間の光明にあきたらず、常時魂が光明の世界に住むことが出来るよう新しい修行に出発せんと決意する人が居る。この新しい出発の時から人間の魂の進化変態の第四段階が眼前に開けて来る。この段階は人間の道徳の世界である。

魂の第一・二・三段階は自利の行動である。欲望も学問もまた自己の自由を求めることも全て自分のための行いである。それが第三段階で自己の自由を得てから後、光明への常住へ向かう道は利他の道である。欲望と学問と感情をその場その時でどのように選択して行動したらよいかの判断力を養成する段階であり、とりもなおさず道徳の世界のことである。自らは既に救われている。

だからまだ魂の自由を得ていない昔の自分の境涯に居る人々にどうしたら自由を知らすことが出来るかの修行である。仏教ではこの行を菩薩(ぼさつ)行という。その知恵を般若(はんにゃ)と呼ぶ。この道は道徳の道であり、政治の仕事でもある。

第一段から第三段に進む変態の道はむしろ短いものということが出来る。欲望と学問とで構成された自我の内容を反省してそのそれぞれを統一することは、自我の内容が有限であるからその反省・退歩の道も有限である。それに対し第四段の利他の道は、自分を取り巻く他の内容が無限ともいえる程多様であるため、それらを救う道も限りなく遠い。

仏教はこの道の遠く長いことを「弥陀五劫(ごう)思惟の願」とも「大通智勝仏十劫座道場」などと表現している(劫とは無限の時間の単位)。地球上の人間ひとりひとりを善導してこの世界に一人の悟らない人も居ない世の中を築くことは全く夢のようなことである。それなら恒久平和の真善美が整った人類社会を創造することは不可能と諦めなけばならないのか。否、希望はある。

魂の第四段階の変態を完成させる法則であり、更に魂の進化の最高段階である第五段の精神の内容を余すところなく表現することが出来る原理が現在の人間の意識の上に復活して来たからである。その原理をアイウエオ五十音言霊布斗麻邇(ふとまに)の原理という。

この原理は三千年前までは「世界は一(ひとつ)つの言(ことば)であった」(聖書)として世界統一の基本法則の言語であり、その時の為政者により故意に人類の物質文明が完成に近づくまで人間の表面意識から隠されたものである。魂の進化の最終段階は人間の創造意志の世界である。この世界の原理法則である五十音言霊によって見る時、人間の魂の一段より五段に進む人間の精神の構造は簡単明瞭に表現することが出来る。

人間の魂が五つの段階に於いて進化変態すると説明出来るのも実はこの言霊の原理によるからである。魂の変態の順序に従って第一段欲望から言霊ウオアエイの五段階が存在する。人間の魂はこの五段階(五重(いへ))を住家とする。日本語の家(いえ)の語源である。(図010-A)

魂の第二段階である学問による物質科学の高度の発達は第一段階の欲望に基づく産業経済を今日見るが如く繁栄させることが出来た。第五段階の創造意志の原理の復活再現は、物質文化の上に第四段の道徳政治の社会を建設することを可能にする。これによって人類は新しい変態を成し遂げ栄光の世紀へ羽化登仙するのである。

【収載】第十号(平成元年四月)完

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◆/109日目:古事記の神話の神々の名前/(

今日は、『古事記の神話の神々の名前』を復習したいと思います。

◆/108日目:古事記の神話の神々の名前 /

 言霊学に興味を持たれた方は、更に一歩を進めて、言霊学の殿堂に入り、古事記の神話の神々の名前を指月の指として自らの心を顧みられ、アイウエオ五十音の言霊の存在を確認して頂き度い。

 人間の心の壮大さ、幽玄さ、想像することも出来ない合理性、そしてその優美さに驚嘆することでしょう。そしてこの人間と人間社会が「捨てたものではない」事にお気付きになりましょう。

 言霊学が示す言霊五十音とそれぞれの言霊を指さす指月の指である古事記神名とを対として一覧表を作ると次の様になる。

/五母音・四半母音/

ウ 天之御中主(あめのみなかぬし)神
ア 高御産巣日(たかみむすび)神
ワ 神産巣日(かみむすび)神 オ 天之常立神(あめのとこたち)
ヲ 宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)神 エ 国之常立(くにのとこたち)神
ヱ 豊雲野(とよくもの)神
イ 伊耶那岐(いざなぎ)神
ヰ 伊耶那美(いざなみ)神

/八父韻/

チ 宇比地邇(うひじに)神
イ 須比地邇(すひじに)神
キ 角杙(つのぐひ)神 ミ 生杙(いくぐひ)神
シ 大斗能地(おほとのじ)神 リ 大戸乃弁(おほとのべ)神
ヒ 淤母陀琉(おもだる)神
ニ 阿夜訶志古泥(あやかしこね)神

以上先天十七神。

/以下後天現象子音三十二神。 /

タ 大事忍男(おほことおしを)神
ト 石土毘古(いはつちひこ)神
ヨ 石巣比売(いはすひめ)神
ツ 大戸日別(おほとひわけ)神
テ 天之吹男(あめのふきを)神
ヤ 大屋毘古(おほやびこ)神
ユ 風木津別之忍男(かざつわけのおしを)神
エ 大綿津見(おほわたつみ)神
ケ 速秋津日子(はやあきつひこ)神
メ 速秋津比売(はやあきつひめ)神
ク 沫那芸(あわなぎ)神
ム 沫那美(あわなみ)神
ス 頬那芸(つらなぎ)神
ル 頬那美(つらなみ)神
ソ 天之水分(あめのみくまり)神
セ 国之水分(くにのみくまり)神
ホ 天之久比奢母智(あめのくひぢもち)神
ヘ 国之久比奢母智(くにのくひぢもち)神
フ 志那都比古(しなつひこ)神
モ 久久能智(くくのち)神
ハ 大山津見(おほやまつみ)神
ヌ 鹿屋野比売(かやのひめ)神
ラ 天之狭土(あめのさつち)神
サ 国之狭土(くにのさつち)神
ロ 天之狭霧(あめのさぎり)神
レ 国之狭霧(くにのさぎり)神
ノ 天之闇戸(あめのくらど)神
ネ 国之闇戸(くにのくらど)神
カ 大戸惑子(おほとまどひこ)神
マ 大戸惑女(おほとまどひめ)神
ナ 鳥之石楠船(とりのいはすくふね)神
コ 大宜都比売(おほげつひめ)神

以上後天現象子音三十二神。

次に神代神名文字一神。
ン 火之夜芸速男(ほのやぎはやを)神

(以上総計五十言霊、五十神)

以上、言霊五十個と、それぞれに対応する指月の指である古事記神話の神々とを結んで、五十対の言霊と神名を書いてみました。

指月の指である古事記の神名と、その神名が指し示すご本尊である言霊ウとの関係について詳しく検討してみましょう。当会発行の言霊学の解説書「古事記と言霊」の中の神名天之御中主神・言霊ウの項(頁9~10)を御覧下さい。

『宇宙の中に初めて意識が動き出す一点、それはよくよく考えてみますと、その動き出す瞬間が今であり、此処である、ということです。

心の息吹が芽を吹き萌え出ようとする瞬間こそ現実の今であり、此処であると言うことが出来るでしょう。これ以外に今という時と此処という処はありません。

私達の心の活動はいつでもこの今・此処から出発しています。人間万事すべての活動が始まる出発点です。

古事記の編纂者太安万侶はこの人間の原始的な意識に天の御中主の神という神名を当てて表現したのでした。その実体を言霊の学問で言霊ウと言います。

何故太安万侶は今・此処に始まる意識の元の姿に天の御中主の神という名前を当てたのでしょうか。

天の御中主の神の「天の」は心の宇宙の、という意味です。「御中主」とはその宇宙の中心にあって、すべての意識活動の元(主人公)としての、の意味。神はそういう実体の事。広い心の宇宙に、ある時ある処で、やがて発展して私という自覚となる原始的な意識が芽生えます。

その意識がどんなに小さい、ささやかなものであっても、無限大の宇宙がその今・此処の一点から活動を開始するのですから、その瞬間の一点こそ宇宙の中心ということが出来ます。

そしてその一点がやがて「我あり」の自覚に発展して行くのですから、宇宙の主人公というわけです。私達日本人の祖先はこの一点の原始的な自覚体に言霊ウ、と名付けたのでした。

そして太安万侶は古事記神代巻の編纂に当って言霊ウを指し示す「指月の月」として天の御中主の神という神名を使ったのです。』

長い引用文を書いて恐縮でありますが、この文章をお読み下さって、指月の指である天之御中主神という神名が「広い、何もない心の宇宙の一点(今・此処)に何かが始まろうとする意識の芽」の事を黙示しているのだ、という事がお分りになったのではないかと思います。

「あれがお月様だよ」と指さしている指月の指に導かれて「今・此処に始まろうとする心の意識の芽」に到達しました。ここまではお分りになる方は多いと思います。

けれどその次に分らない事が控えているのにお気付きになる方は少ないのではないでしょうか。それは何か。

指月の指は確かに「心の宇宙の一点に始まろうとする意識の芽」に導いてくれました。けれど指月の指の役目はここで終ってしまい、天之御中主神が言霊ウであるという事を教えてはくれません。

この指月の指である天之御中主神という神名からは決してそれが「言霊ウ」であると断言する何者も備わってはいません。それなのに何故「言霊ウ」なのでしょうか。

人間の心を分析して究極的に五十個の要素がある事を発見しました。その要素の一つ一つを、私達が今使っているアイウエオ五十音という言葉の最小単位の一つ一つと結んで五十個の言霊(ことたま)を得ました。

そこで考えて見て下さい。五十個の心の要素と五十個の言葉の単位との結びつきは幾通り有るとお思いでしょうか。そこには数学のコンビネーションの計算をしなければなりませんが、考えるのも恐ろしい程の数となる事は間違いありません。

五十個の言霊はそれぞれ異なった内容・性質を持ち、然もその五十個を五十通りの典型的動きの活用により、最終的に人間精神の理想の構造を作り出し、その構造原理に従って物事の実相そのものを表現する日本語を造り、更にその原理によって人間が住む最高の理想社会を建設して行く為に些かの矛盾も起る事のない合理性を持った学問の完成であったのです。

この学問の発見のために、私達日本人の祖先のどれ程大勢の人々、とどれ程長い年月の試行錯誤の努力・研鑚があった事でありましょうか。

その厖大(ぼうだい)な研究・努力の結果が人類の第一精神文明創造の原器である言霊の学問の完成となって現われたに違いありません。それは丁度、「物質とは何ぞや」を数千年にわたって研究し、近い将来その完成間近な原子物理学と同様の道程を踏んだに違いないのです。

上の事に鑑みて約百年前より言霊学の復活が始まり、諸先輩方の並々ならぬ努力で大昔にあったと同様の姿で此処に言霊学が姿を現わしたのでありますが、その復活への努力が大昔の如くその初めの零(ゼロ)からの出発ではなく、言霊学の確かな記録・文献の発見が土台となったであろう事が推察されるのであります。

明治の時代、言霊学の伝統にお気付きになり、その復活・研究を始められたのが明治天皇御夫妻であったと聞いております。御夫妻の研究のお相手を務めましたのが旧尾張藩士で国学者・書道家であり、皇后の書道の師でもあった山腰弘道氏でありました。

その後、言霊学の伝統は弘道氏の子、山腰明将氏、次に小笠原孝次氏、そして現在、当言霊の会がその任を担当しているのでありますが、これ等言霊学の諸先輩並びにその他言霊学の復活に活躍された方々の記録・文献を拝見いたしますと、どれもが何の疑いもなく当会が皆様にお伝えしている言霊と古事記神名との結び付きと同様のものを採用している事であります。

更に古事記の神名に指示された五十音言霊を、古事記の五十一番目の神より百番目の神の神名を指月の指として、そのその整理・運用法を検討し、言霊学の総結論である禊祓の行法の解明を進めるに従い、古事記神名と五十音言霊との結び付きに関して何の矛盾も起らず、反ってその正確さに対して驚嘆の念を増すばかりであります。

言霊学という真理の中で、その中心に位する人間の心の要素と五十音との結び付きの正確さこそ真理中の真理というに値するものであると思われます。

この事実から推察して、言霊学の根幹である古事記神話の神々と五十音言霊との結びつきは、言霊学が実際に人類文明創造の原器として活用されていた太古から、または少なくとも古事記が編纂された奈良朝初期の時代から、宮中に記録または文献として秘蔵・保存されて来た事が窺われるのであります。

その場所は宮中温明殿、別名賢所(天照大神のみたましろとして模造の神鏡を奉安する所。内侍が守護するので内侍所ともいう。)でありましょう。世界の中で最も賢い所と言うべき所であります。

(この項終り)

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/110日目:「うる」、「おる」、「ある」、「える」、「いる」の語源/

今日は、「うる」、「おる」、「ある」、「える」、「いる」の
語源を学びたいと思います。

◆/110日目:「うる」、「おる」、「ある」、「える」、「いる」の語源 /

日本語と言霊

会報百九十号の中で日本語の起源についてお話をしました。今から約一万年程も前、世界の屋根といわれる高原地帯からこの日本列島に下りて来た私達日本人の大先祖である聖の集団が言霊五十音布斗麻邇の原理に基づき、その十七の空相音、三十二の実相音を組合せることによって、物事の実相を見極めた上で、それに相応しい名前をつけて行きました。これが日本語の始まりです。

人間のア次元の天真爛漫な心で物事の有るが侭の姿を捕捉して、それに真相音である言霊によって名を附けたのでありますから、その附けられた名前はそのまま物事の実相を表わしており、その名の他に何らの説明を要しない言葉でありました。それ故にわが国のことを昔、神惟言挙(かむながらことあ)げせぬ国、また言霊の幸倍う国などと呼んだのであります。

そして「言霊の幸倍う国」「神惟言挙げせぬ国」の意味をはっきり示す例として、人間精神の自覚の進化を示す順序である五つの母音、ウオアエイのそれぞれの下に、物事が心の空間を螺旋状に進展して行く音である「る」の一字を結合させて、「うる」(得、売)、「おる」(居)、「ある」(有、在)、「える」(選)、「いる」の五つの言葉を前回の会報の末尾に挙げました。

人間が生まれながらに与えられているウオアエイの五性能を自覚するために、この順序に従って心の勉学をなさった方ならば「得る」「居る」「有る」「選る」「いる」の五つの行為の内容は容易に御理解いただけるのですが、今は老婆心までにその内容について解説をいたします。

人間は元々生れた時から五つの性能に恵まれています。先ずは言霊ウの五官感覚に基づく欲望性能です。この次元から産業・経済の社会が現出して来ます。

次には言霊オの次元で、言霊ウの五官感覚を認識の基礎にした経験知性能が現われます。この性能の発展によって広く物質科学や、その他の客観的な学問の社会が現出して来ます。

進化の第三段階は言霊アの次元です。ここから現出するのは人間の感情です。この感情性能の探究からは宗教・芸術の世界が現出します。

次の第四段階は言霊エです。この次元からは今までに挙げて来た言霊ウオアの三性能を如何様に活用すれば眼前の事態をうまく処理することが出来るか、の選択智、実践智が発現します。この性能の発展によって道徳や高度の政治の社会が現出して来ます。

人間性能の自覚進化の最終段階は言霊イの生命の創造意志です。この次元から現われる活動は現実の現象として姿を現わす事がなく、言霊ウオアエの四段階を統一し、この四次元の宇宙に刺激を与えて、それら四次元それぞれの現象を発現させる原動力となり、同時にその現出した現象に名前を附与するという特有の性能を有しています。言霊五十音はこの言霊イの宇宙に存在しているのであります。人間精神の最終段階である言霊イ次元を自覚するという事は、右の如く言霊五十音を以て心の構造を隈なく知るという事であります。

以上人の心の五段階構造とその段それぞれの性能についてお話をして参りました。人間はこの様に五つの性能を授かってこの世に生まれて来ます。そしてその人生をこの五性能によって生きて行くことになるのですが、普通人は自分がこの様な性能を授かっているという自覚を持ってはいません。

自分にどんな性能が与えられているのか分らないのですから、この世に生きて行く間には種々の困難に遭遇し、懸命に努力しなければならなくもなります。「八苦の娑婆」といわれる所以です。よりよく暮らし、幸福に生きるためには、自分が自主的に自らが授かっている心の性能を点検・検討して、その五段階構造を自覚することが必要です。

そこに心の勉強が始まる訳であります。以上の心の作業によって五段階の心の構造を自覚的に登って行く時、各段に於て人はどんな事を自覚するのか、を考えることにします。そしてその答えが先に示しました「うる」「おる」「ある」「える」「いる」となることをお話したいと思います。

◆言霊ウ次元、「うる」

赤ちゃんは生まれるとお母さんの乳を吸います。空腹のおなかを乳で満たそうとする欲望本能です。大きくなるにつれて母親におねだりをします。「お菓子が欲しい」、「赤い服が着たい」。もっと大きくなると、その欲望も大きくなります。「どこどこの学校へ行きたい」「旅行へ行きたい」「一人で暮らしたい」「出世したい」「彼(彼女)と結婚したい」「政治家になりたい」「資金がほしい」「大臣になりたい」「勲章が欲しい」……「何々たい」が一生続きます。この言霊ウの宇宙から発現して来る五官感覚に基づく欲望性能は留まることを知りません。

一生の間、この欲望性能に終始してそれで終る人も少なくありません。この言霊ウという性能の次元で見る時、始まりも終りもありません。一生の間唯ただ「たい、たい、たい……」と続きます。その原因も目的も「たい」即ち自分のものにし「たい」という事に尽きます。「貴方は何故それを欲しいのですか」に対しては、ただ「それがそこにあるから」ということに尽きます。この言霊ウから発現する行為はただ一つ「得ること」です。「自分のものにする」ことであります。そこには言霊ウの無言の「ウ」が渦巻いて吹き出しています。即ち「うる」なのです。

◆言霊オ次元、「おる」

生まれて学齢期になると子供は幼稚園に入ります。この頃になりますと、子供はよく親に「これは何?」「こうなるのは何故?」と尋ねるようになります。この好奇心は小学校、中学校、高等学校、大学校と進学するに従い、次第に強くなって行きます。

この言霊オの次元宇宙から発現する「何故」「何時」「何處」と尋ねる人間性能を経験知性能と呼びます。この性能の特色は既に起った事を再び脳裏に呼び戻し、呼び戻した数個の現象間の記憶の関連性を調べ、その法則を探ることであります。

既に過ぎ去ったものの(記憶)(記録)、それは言霊オの性能の領域にあるものです。それは発現した瞬間の事柄そのものではありません。発生した事柄の瞬間の有りの侭の姿を「真実」と呼ぶならば、それが過ぎ去った後で、その記録や記憶を如何に調べ、その関連性を追及し、法則化しようとも、其処で求められた答えは真実ではありません。

そこで更に記録や記憶の観察法を変えることによって多様化し、その間の関連性を更に更に精密化しようと努力が続きます。それは人間の「考える」努力の連続です。真実そのものを神と呼ぶならば、その努力は過去から糸を手繰って神に帰ろうとする努力です。

日本語の「考える」とは正に「神帰(かみかえ)る」を語源としています。経験知によって真実に戻ろうとする努力は、真実の周りをグルグルと記憶と記録を踏み台として永遠に廻り続けることなのです。即ち言霊オが渦巻いていること、言い換えると「おる」ことです。

「おる」を漢字で書くと「居る」となります。「居る」の意味は「過去から然々の事をして来て、今は此処に居る」ということであります。(国語辞典を見ると、漢字の居を「おる」とも「いる」とも読むと書いてありますが、居の字は「おる」が本来であり、「いる」に相当する漢字は有りません。居の字が「古」の「尸」(しかばね)と書くことから見ても御理解頂けると思います。)

言霊ウ次元にある人が何かを「うる」と、その手に入ったものは自分のものと思います。その「自分のもの」の意識から自我意識が生れます。同様に言霊オ次元に於ても、自分の手にした経験知識の累積を自我そのものと思い込みます。

その自我は、自我の内容である知識とは相反する他人の言葉や行為に接しますと、瞬間的に、また無自覚的に心中にて他の人の言動に対し批判の鉾先を向けます。その批判が言葉となって相手を批判しても、また言葉に出さず、ただ心中に於てだけの批判であっても、同様に相手を攻撃することに変りがありませんから、至る所で紛争が起り、刺々しい世の中が現出し、小は家庭内の騒動から大は国家民族間の戦争を惹起するまでになります。そしてこのお互いの批判攻撃の輪廻は永遠に続くことになります。現在中東で起っているアラブとイスラエルの紛争はよい例であります。

◆言霊ア次元、「ある」

人間の心の自覚進化の第三段階は言霊ア次元であります。ここより発現する人間性能は感情です。この感情という性能は普通今までにお話した言霊ウの欲望性能と言霊オの経験知性能の影響を受け易く、喜んだり、悲しんだり、喜怒哀楽、恨み、憎しみ、一生の間全く果しがありません。

そこで美しいもの、愛、慈悲、魂の自由を求めて芸術や宗教の活動が起ります。五官感覚からの飛躍、経験知識からの魂の開放、自我意識からの超脱です。これ等の目的を達成する宗教的修行、美的追求につきましては今までに幾度となくお話しましたから、此処では省略いたしますが、それ等の活動の目標が美そのもの、本来の自我の探究であることは間違いありません。

そして追求・探究の末に行き着く境地は芸術で言えば、抽象でも写実でもないもの、その「有りの侭の姿」であり、宗教で言えば、また人間「有りの侭の自分」なのであります。

そこに言霊アの次元の自覚がもたらすものは「有りの侭の姿」であり、一言で言えば「ある」ということです。これを言霊学で示せば、その物、その人が広い宇宙の中の一点に「ある」、その一点の時・処・位を確認する眼を持つ事です。そしてその眼を持つためには、仏教の真言宗がいみじくも明言したように「阿字不本生」(アという言葉は元々生まれて来る音ではなく、宇宙始まって以来存在する音、即ち宇宙そのもの、という意)の眼でもって見ることであります。

人それぞれが持つ経験知によって見るのではなく人の本体は広い宇宙そのものであり、この永劫不変の宇宙の眼で見る時、物事の実相が映し出されることとなります。宗教や芸術の真の目標は主体的にこの宇宙の眼によって人の世を見、また物事の実相を見、それを創造美に高めて行く事なのであります。

◆言霊エ次元、「える」

言霊ウ・オから言霊アへの魂の進化を自覚することは、世の中の一切の柵(しがらみ)から開放されることであり、人にとってこれ程の歓喜はないと言える程の喜びであります。そのためにこの心境にとどまり、自由を謳歌して一生を終える人がいます。これを仏教では辟支仏(びゃくしぶつ)と呼んでいます。けれど人の心の進化はこれにとどまるものではありません。

更に人生第一義といわれる菩薩、更に仏陀への道を進むことを慫慂(しょうよう)しています(法華経、化城喩品)。「自分は御蔭様にて世の束縛から開放され、魂の自由を得た。しかし世の中には種々の束縛の中で苦しんでいる人が多い。

自分が救われた御恩返しにこの人たちを救わさせて頂こう」と言って衆生済度の道に踏み出します。この道を歩む人を仏教は菩薩といい、キリスト教では使徒と呼びます。これが人の心の進化の自覚の第四段階である言霊エの次元です。

この段階に歩を進めてみると、魂は束縛を離れて自由であり、その自由な悟りから、かって自分が束縛の中で苦しんで来た煩悩が、実はそのまま人生のたどるべき意義ある経験であった事を知ります。煩悩を迷える心で見るから苦しみなのであり、広大・永遠の宇宙の眼で見れば、それがそのまま悟りに他ならないことを更めて知ります。

菩薩道に入り、迷っている人を救済するのに、自分に与えられた欲望、経験知、感情をどう塩梅(あんばい)したらよいか、選ぶ事になります。この四段階目の進化の自覚の道が「える」で示されるのはここに理由があります。

この人間の精神進化の第四段階には今までの宗教が気が付かず、それ故に言及することがなかった大きな問題が隠されています。自覚進化の言霊エの「える」、即ち「選(え)る」とは一般的には言霊ウオエの三つの性能をどのように選んで、即ちコントロールして物事を処理するか、また第四次元自覚の仏教で菩薩と呼ばれる人が言霊ウオアの三性能を選り、コントロールすることによって一切衆生を救済する人間性能です。

この処理または救済に当り、三性能をコントロールする時、どのようにコントロールするか、の確乎たる法則の自覚がないことであります。そのためコントロールの尺度を、以前頼っており、それが束縛という重荷になっていた個人の経験知に頼ることとなります。

個人の経験を完全な法則にまで引上げるには五劫とか十劫という永い永い時間をかけねばならない修業が必要だと仏教は説いています。この「選(え)る」、コントロールの厳密な法則を教える言霊の原理がここ二・三千年間隠されてしまっていた暗黒の世であったからであります。

言霊原理が甦(よみがえ)りました。明治天皇以来百年にわたる諸先輩の弛(たゆ)まぬ努力によって第十代崇神天皇以前に現実の政治の鏡であった言霊の原理が昔あったそのままの姿で復元されました。

その結果、人間精神進化の自覚の第四段階である言霊エの次元の自覚が一言で「える」だと言うことの出来る時代が到来したのです。「選る」とは何を選ぶのか、が明白に示されました。

それは精神的次元宇宙を表わす言霊母音ウオアエを刺激して、各次元からそれぞれ現象子音を生む原動力となる言霊イの働きであるチイキミシリヒニの八つの父韻の順序、配列を「選ぶ」のだ、と知ることが出来たのであります。この事を神道の予言は国常立命(くにとこたちのみこと)の復帰と言います。ここでは八父韻の母音ウオアエに働きかける配列を簡単に左に示します。

言霊母音ウ―キシチニヒミイリ
言霊母音オ―キチミヒシニイリ
言霊母音ア―チキリヒシニイミ
言霊母音エ―チキミヒリニイシ

◆言霊イ次元、「いる」

人間精神の進化自覚の最終段階は言霊イの次元であります。この次元から発現する人間性能は生命の創造意志です。創造意志という性能は現象として現われることはなく、第一に言霊ウオアエ四次元の宇宙を統轄し、第二に言霊イの働きである八つの父韻となって他の次元宇宙に働きかけて、これ等を刺激して四次元それぞれから現象子音を生み出す原動力となり、第三にそのようにして生み出した言霊四次元ウオアエから現出する現象に言霊原理に則り名前をつけるという三つの性能を持っています。

また五十音言霊はこの次元に存在し、展開しています。宇宙間の現象は誠に千差万別、無数でありますが、その無数の現象をこの次元に視点をおいて見る時、このタッタ五十音の言霊によってすべてが表示されて、区別され、それぞれの現象の意味・内容が理解され得るのであります。それ故にこの世にあるすべてのものはこの言霊によって構成され、この言霊によらずにこの世にあるものは何一つありません。

言霊五十音は何時、何処で活動しているのでしょうか。それは常に「今・此処」(続日本紀で中今といいます)です。また言霊のことを一音で霊とも呼びました。その霊が活動することは霊駆(ひか)り、即ち光であります。

人の生命(いの道[ち])はこの光即ち言霊の活動によっています。この事を新約聖書ヨハネ伝福音書冒頭の文章がいみじくも簡潔に伝えています。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なり。

この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」

以上、今まで人間精神の進化をその進化の段階の順序に従って説明し、段階それぞれに対応する人の心構え、「うる」「おる」「ある」「える」についてお話を進めて来ました。心の段階進化の自覚でありますから、人が自分自身の心を省(かえり)みることによって自覚されます。

他人を見て自覚するのでなく、自分を見ることによる自覚です。その結果、言霊ウの次元に於ては、欲望の目標を手にすること、それを「うる」と言うことを知りました。言霊オの次元に於ては、自らの過去の魂の遍歴の過程を知り、その因果によって自分は今・此処に「おる」と自覚することでありました。

言霊アの次元では、人は常に今・此処に有るが侭の姿でここに「ある」自分を知りました。言霊エの次元に於ては、勇気一番、今・此処にあることが出来る幸福の御恩報じとして、世の中の迷える人々との関わり合いの中に自分の一生を投じ、如何にせば人を救えるかの選択智、更には人類救済のための言霊原理の八父韻の配列を「選る」ことの中に生きようとすることを知りました。

では進化の最終段階の自覚の心を示す「いる」とはどういうことなのでしょうか。

創造の神・言霊の神である伊耶那岐の大神は言霊の原理を完成し、その結論である天照大神、月読の命、須佐男の命(三貴子[みはしらのうずみこ])を生み、自らの神業をすべて成し遂げて、淡路の多賀におすまいになられた、と古事記にあります。

この場面を日本書紀に見ることにしましょう。「伊弉諾尊、神功既に竟へたまひて、霊運当遷(かむあがりましなんとす)、是を以て幽宮(かくれのみや)を淡路(あわぢ)の洲(す)に構(つく)り、寂然(しずかた)長く隠れましき。亦曰く、伊弉諾尊功(かむこと)既に至りぬ。徳(いきほひ)亦大いなり。

是に天に登りまして、報告(かへりごと)したまふ。仍ち日の少宮(わかみや)に留まり宅(す)みましぬ。」神功(かむこと)とは言霊原理の百神を生んだ仕事のこと。

淡路の洲とは吾と我の間の交流によって生まれて来る言霊百神の原理を生み、その証明と自覚とをすべて成し終えて、それが言霊ス(洲・皇・静・巣)の姿に落ち着いた心であります。日の少宮とはアオウエイ五母音宇宙のこと。全ての現象はここより生じ、ここに帰って消える、日(霊)の湧く宮でもあります。

伊弉諾尊はこの五母音宇宙の中に永遠に留まり宅んでいらっしゃいます(「古事記と言霊」284頁)。このすべてを知った上で言霊スの姿に落ち着いた姿で世界人類の動向を掌握して「今・此処」に粛然としていること、これを「いる」と言います。

そしてひと度立ち上がれば、気である八父韻が活動を開始して、「いる」は「いきる」と変じ、父韻は母音宇宙に働きかけて現象子音の霊葉を生み、その「霊駆り」によって暗黒の森羅万象に光を与え、歴史創造という新生命の中に摂取して行く原動力となります。―真実の日本語の「いる」という言葉は日本語以外には見出すことが出来ません。因みに神代象形文字の「ゐ」は人が坐った姿()であります。

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◆/111日目:言霊を自覚自認する方法について/

島田正路先生が出版されて、現在は手に入らない
『言霊』という本があります。

私は、言霊の会からコピーを許諾され、コピーを
持っています。

その中に、

言霊を自覚自認する方法について

という章がありました。

それを、明日から学んで行きたいと思います。

そして、最後に、禊を学びたいと考えております。

禊のところを、予習しておりますが、その深さにまた
驚いております。日本人が海外の文化を吸収してきた
理由もよく分って来ました。それも言霊で分析し、
禊ぎ、吸収していたのですね。

言霊を感じるために、楽器の如く、様々な自然の音に
耳を傾け、まだ自らコトタマを発して下さい。(^_^)。


◆/112日目:言霊を自覚自認する方法について(1)/

今日は、言霊を自覚自認する方法について(1)を
学びたいと思います。

/言霊を自覚自認する方法について(1) /

言霊を自覚自認する方法について

いままで言霊について母音・半母音・父韻・親音・子音と説明をしてきました。

言霊とはいかなるものかについて大方の御理解を頂けたものと思います。さてそこでこれから言霊を自覚し確認するにはどのような方法があるかについてお話を進めてみたいと思います。

人間が日常食べたり、議論したり、映画を観賞したり、道徳について考えする生活自体が、実は五十音言霊の働きそのものであります。

自覚すると否とにかかわらず、人間は生きていかれることに変りはありません。それなら言霊を自覚するとはどういうことなのでしょうか。

人はスイッチ一つでテレビの番組を楽しむことが出来ます。 けれど大部分の人がテレビの受像機はどんな構造でできているか、放送局から受像機までどんな仕組で連なっているか知りません。

知らなくてもテレビはスイッチを入れれば映ります。しかしテレビがどこか故障を起こしたらどうでしょう。また、何かの都合でチャンネルが混線することが起こったらどうするでしょう。

否応なくテレビの専門家のお世話にならざるを得ません。さもなければテレビの勉強を自身で始めねばなりません。

その上で構造を知った時、その人はテレビに関してはすべてを知り、自由に操作できます。

言霊についても同様です。

人間が日常の生活から始まって、社会の情勢・国際問の問題・人類全体の将来等に何らかの危惧・疑問を持ち、既存の学問・宗教・道徳等を駆使して事態に対する意識を統一しようとしても、どうしても不可能となった時、人間生活の最も根本の要素である言霊の存在が初めて身近なものに感ぜられてくるのです。

事態を解決するためには人間生命の構成要素である言霊の原理の立場から人生を再認識しなければならなくなるわけです。

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◆/113日目:言霊を自覚自認する方法について(2)/

今日は、言霊を自覚自認する方法について(2)を
学びたいと思います。

/言霊を自覚自認する方法について(2) /

言語は生命の精神における究極単子です。 人間をいま・ここで現に生かしている根本要素です。

ですから言霊を確認する第一の道は、あくまで自分の働いている心に即して考えていくより他にはありません。言霊として説かれた要素を自己の心の働きの中に反省によって確認していくことです。

そしてその確認ができたら、その確認された言霊の原理によって自己と他・社会・世界の動きを再構築・再認識していくことです。これが言霊確認の第二の道となります。

この二つの道が完成されますと、その人は人生最奥の言語の立場において人生を見、社会を観察し、世界を見透すこととなります。

これ以上に人間世界を明らかに知る方法はありません。前置きはこれくらいにして言霊自覚の方法についての話を進めることにしましょう。

この本の初頭に人間の精神の五つの宇宙を説明しました。欲望・知識・感情・道徳・意志の五つの世界です。人間はそれを自覚すると否とにかかわらず、この世に生まれてきた以上必ずこの五つの宇宙の中で生きてゆきます。

しかし人間は動物であると同時に神の子として自分の住んでいる宇宙実在を認識・自覚し、それに名を付け、他の人々に伝え文明を與し後世にまで遺し、人類として発展します。

そして五つの宇宙をウオアエイと順を追って自覚認識してゆくことがとりも直さずその人の心の進化成長でもあるのです。そして五つのうちの最後の認識である人間意志の実在言霊イを見極める時、言霊の原理を理解し確認して活用運用することができるようになります。

昆虫は幼虫―蛹―成虫の三段階を経て大空に飛び立ちます。人間の精神は五段階の進化が可能です。ただし昆虫と違って誰もがこの進化段階を全うするわけではありません。

年数だけは長く生きても、第一段、または第二段階の認識自覚で終わる人も多いのです。欲望・知識・感情・道 徳・意志等の五つの世界をそれぞれ一つずつ他との混同なしに自覚するにはどうしたらよいのでしょうか。

いま、この人間の精神進化の段階を順を追って説明してゆくことにしましょう。

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◆/114日目:第一 言霊ウの段階/

今日は、言霊を自覚自認する方法について(2)を
学びたいと思います。

◆/114日目:第一 言霊ウの段階 /

欲望の段階です。オギャーと赤ん坊が呱々の声をあげて何も教えられない時から乳房を吸います。食物をほしがる欲望の段階です。

次第に大きくなり食物の他におもちゃがほしい、本がほしいということからさらに長じて、 旅行がしたい、金がほしい、名誉がほしい、地位がほしいと欲望に限りがありません。

現にこの欲望の世界の他はほとんど知らずに一生を過ごすことがいかに多いことでしょう。この進化段階にある人を払教では『衆生』と呼びます。

またこの世界にうずくまって他のことを知ることなしに大きな顔をしている人を禅坊主はウ字虫、すなわち蛆虫と呼びます。

この段階を基盤とした社会といえば広く産業経済の社会があります。もちろんこの世界しか 知らない人でも他の四つの次元オアエイの宇宙にも生命を生かして暮らしていることに間違いありません。

ただその四つの世界を自覚の対象として意識することが極めて少いということなのですね。

このウ言霊の人間性能は、人間における最も幼稚な初発段階の性能でありますが、 同時にまた人間が生きてゆくための土台となる働きでもあります。

他の、さらに高次元の性能を開発しょうとして、このウ次元の、すなわち食べていくことの人間の営みを軽蔑する人をよく見かけますが、その態度が高次元の性能の自覚運用をも不可能にさせることになりかねません。注意すべきことのように思われます。

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◆/115日目:第二 言霊オの段階/

今日は、第二 言霊オの段階を学びたいと思います。

◆/115日目:第二 言霊オの段階 /

この次元においての人間性能は、言霊ウ次元で行なわれた諸現象相互の関連性を概念をもって知識として理解することです。

現象の起こる原因・過程・結果をあらためて再構成して、その意味・法則を概念的にまとめる段階です。一般に学問することとはこの段階の性能のことであります。

言霊の勉強におきましても、言霊についての話を聞き、本を読み、知識として理解していく段階です。言霊原理は人間生命の営む一切の現象を成立させている根底の実在法則でありますので、言霊を勉強する以前に人生一般に関する知識を広く身につけていればいるほど、言霊を理解する上で有利であるということができます。

商業や産業人の心理、学問をするうえでの思考方法、芸術や宗教の体験、道徳的実践への勇気と挫折等の経験が多いほど言霊理解に役立つことでしょう。

しかし、これらの体験が少いからといって言霊原理が縁遠いというわけでもありません。この世の中に横たわる矛盾の洞察と理想社会への渇望が言霊勉学の一番の糧であります。

ここで言霊を理解し、自覚運用するうえで知っておきたい知識を得るために役立つ書物の名前を列記しておきます。

まず第一に古事記、日本書紀です。特にその中の神代巻は言霊原理の詳細な手引書であります。

ゆえ、すぐには理解し難いことと思われても必ず読まれることをお奨めします。古事記と日本書紀とではその記述に相当の違いがありますが、その相違の意義についてはこの本の後章において説明されます。

記紀双方とも神話というものが言霊原理を表徴、 呪示する典型であることを読者は理解されることでしょう。万葉集と古今集の歌本も 一読の価値があります。和歌が敷島の道・言の葉の誠の道として、三十一文字をもっ て心情を吐露すると同時に、歌によってはその中に言霊原理を巧みに折り込んだものが見出されます。

ギりシャ・北欧・ローマ・エジブト等の神話もお読みになっておけば言霊の理解に役立っことは間違いありません。

日本・中国・東洋・西欧・世界等の歴史を読まれて年代順に大ざっばにでも頭に入れておけば、言霊原理を理解された時、その原理によって歴史を再構築するうえで役立ちます。

特に日本の歴史に関しましては戦前と戦接の日本史の双方を読まれることを是非お奨めしておきます。(その意味は後章で明きらかになります)

宗教書も必読書です。神道では神道五部書、里住、金光・天理・大本等の宗教々祖の遺稿やお筆先も興味のあるものです。キリスト教では旧・新釣聖書があります。

特に旧約ではモーゼの五書・ヨプ記・イザヤ記・ダニエル記、その他新約はマタイ伝・ヨハネ伝・黙示録等は必要です。仏教では般若心経・金剛般若経・浄土三部経・華厳経・維摩経・法華経等が有益です。その他の仏典では禅宗無門関・碧巌録・正法眼蔵・歎異鈔等々、多数が挙げられましょう。

中国の書にも有益なもの多数です。老子・孟子・易経・論語等がさしあたって数えられます。インドのヨガ経典も役立ちます。その他各国の哲学書も有用なものでしょう。

以上列挙しました書物の中で手近なものから始められ、不明な点はそれぞれの導師に尋ねられて一応の理解を得、卒業されることが、言霊を自覚するための準備段階の知識として必要なことであります。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/116日目:第三 言霊アの段階(1)/

今日は、第三 言霊アの段階を学びたいと思います。

/第三 言霊アの段階(1)/

「自分のものにする」という言葉があります。物であれば金を出して買って自己の所有物とすることです。知識でいえば、それを暗記しているだけでなく、概念・理論・法則をよく理解して、論理的思考を駆使することができるようになることです。

ところでこの第三段階の言霊アにおける言語の勉強は、言霊を自己のものとすることではなく、

====================
言霊が自己の生命そのものである
====================

ことを知る初めの段階、といったらよいでしょう。

このことを知ることは“自覚”という言葉に最もふさわしい事実ということができましょう。「天上天下唯我独尊」 と仏教で申します。宇宙において、我一人尊しとはなんと高慢な態度と思われるかも知れません。

けれども、自分の心の中を深く見つめていって、 ついに、自分の心の根元が宇宙そのものであり、その宇宙から現われた自分の構造内容を知ることによって、とりもなおさず、人間を、社会を、世界を、知ることができるのだと知ったならば、天上天下唯我独尊とは真理なのであり、事実であり、決して高慢な自惚ではないこととなりましょう。自覚とはこういう種類の確認を言うのです。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/117日目:第三 言霊アの段階(2)/

今日は、第三 言霊アの段階を学びたいと思います。

◆/117日目:第三 言霊アの段階(2)/

第一の言霊ウと第二の言霊オの段階の学習態度は進歩をめざすことです。欲望を遂げるには一にも二にも前進することが基調となります。

学問する言霊オの心構えも広く本を読み、多勢の人の話を聞き、質問するなど進取の態度が必要です。一つでも多くの経験を積みそれを少しでも広い理論体系に概念的に心の中で組み立てていくことであります。

この二つの世界においては他人より強く大きい欲望を持ち、その経験を少しでも他より広い確かな理論体系にまとめた人が勝ちとなるはずです。“進歩”が学習の基本です。

ところが第三段階の言霊アの勉強になるとその心構えが逆転します。その態度の基調は“退歩”なのです。「天地の初発の時高天原に成りませる・・・」 (古事記)。「元始に神天地を創造たまえり」 (旧約)。

「太初に言あり」 (ヨハネ伝)。この“はじめ”すなわちいろいろな心の現象が起こっては消えていくその本源の宇宙の自覚の次元が言霊アです。

とすると言霊ウの次元の経験と、言霊オである概念的把握という二つの個人的見解では、どうしても、その見解が出てくる元の世界は捉えることはできません。

経験と概念理解を無限に積み重ねれば起こってくる現象はそれだけ正確に把えることはできるでしょう。

けれどもその現象が起こる以前の、または、その現象が消えてしまった後の、何もない宇宙そのものを把えることは決してできない道理です。

ここでは進歩の追及態度は通用しないのです。それでは言霊アの把握の方法には何があるというのでしょうか。そこに「退歩の学」 が登揚します。

人間がこの世に初めて呱々(ここ)の声をあげて生まれ出た時、その心は真白で汚れないものでありましょう。まさに神の赤子です。その後に身につける経験や意見・希望・理想等々の個別的見解を持っていないためだということができます。

これら種々の見解の基礎となる知識・経験は人間精神の成長にとって欠くことができず、またその知識・経験の獲得によって“自我”を形成していくのですけれど、同時に人間はその自分の持つ価値判断の基準となる経験・知識の体系を本来の自分自身だと思いこんでしまいます。そして各自の経験・知識が触れ合うところに競争・議論・反発等の騒動も起こってくるのです。

いま、人間がこのような精神成長の過程で、経験・知識によって形成された人格の有限さ・狭さ・不自由さに気付き、何者・何事にも制約されない精神の自由の境地があることに気付く時、その探求の態度はそれまでの進歩をめざすことから百八十度の転回を余儀なくされるのです。

それまで自我を成長させようとせっせと集めて来た経験や知識が、実はすべて他人や社会からの借りものであり、本来この世に生まれ落ちた自分自身とは別のものであることを心の中に確かめていく作業を始めねばなりません。

いままで一生懸命集めて自分の着物として重ねて着込んで来た経験・知識・信条等を、今度は一枚一枚脱ぎ去っていくのです。それ以外に精神的赤ん坊に帰る途はありまません。

この精神内のU夕ーンすなわち反省に、おおむね二つの方法が考えられます。宗教でいうところの自力と他力です。簡単に紹介しましょう。

/日々の生活の中では/

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◆/118日目:第三 言霊アの段階(3)/

今日は、第三 言霊アの段階を学びたいと思います。

◆/118日目:第三 言霊アの段階(3)/

その一

いろいろな心的現象を生起させる本源の宇宙が、すなわち本然の自己が、必ず現前することを確信し期待しながら、いままで自己自身だと思いこみ生きるよすがとしてきており、判断の基準ともなっていた・経験・知識・信条・理想等々を、反省のうちに否定していく道であります。

「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」という諺があります。生まれ長じて知識・教養を“身につけてきた”はずであるのに、いつのまにかその知識・教養が自分という母屋を乗っ取ったのですから、それをことあるごとにひとつひとつ自分自身に言いきかせて再び母屋から庇に出て行ってもらう作業です。

その知識・信条の内容がどんなに立派なもの、有益なものであろうとも、どんなに生命をかけて信じているものであっても、借りているもの・本来の真白な自分でないことに違いはありません。それを庇にまで帰ってもらうのです。

人間が一度経験したこと、手にした知識は、どんなに否定しても決して全く忘れ去り、関係のないものになることはできません。けれどもそれらの経験・知識に自分自身が翻弄されてきたいままでのことを反省し、実は自分が時所(ときところ)に応じてそれらの経験・知識を反対に使いこなすのが自由の態度なのです。

反省し否定するといっても、その中心に本来本然の自己である宇宙の存在を確信しなければなりません。この確信のない単なる経験・知識・信条等の否定は、当然のことながらニヒリズムに陥ってしまう危険をはらんでいます。

いまは現前していない本然の自己である宇宙の自覚を確信するのですから、この態度・心構えは信仰ということができましょう。

仏教の一つの宗派である禅などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗では借り物である知識・信条等を否定していく働きを無といい、最接に自覚する本然の宇宙を空と呼びます。

心中にこの経験・知識を否定しても、その経験・ 知識はまるで生きもののように自己主張し反撃してきます。それでも遂に否定し否定し盡(つく)す時、忽然(こつぜん)として、自己の本体が実は広い広い唯一つの宇宙そのものであることが自覚されます。

それまで自分という個人が勝手に見ていると思っていたのが、実は宇宙そのものがこの眼を通して、この手に依って、この耳を通じて、見、触れ、聞いていたのであることが、はっきりと自覚されるのです。

この、見られる光・宇宙に充満している光、また、成じられる無限のあたたかさ、その世界が言霊アなのです。この宇宙が、溢れ出る感情の世界であり、芸術・宗教のよって興る世界であることも明らかに看取されます。この光と熱の充満した宇宙が“天地の初発”なのであり、仏教で無礙光(むげこう)といわれ、キリスト教で「光に歩めよ」と称えられる宇宙のことであることがおのずと了解されます。

/日々の生活の中では/

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そして、願いをビジョンしましょう。


◆/119日目:第三 言霊アの段階(4)/

今日は、第三 言霊アの段階を学びたいと思います。

◆/119日目:第三 言霊アの段階(4)/

第一の道が、自分の本然の姿の実在を信じて、その自覚を妨げている色眼鏡である自我の経験・ 知識等を心中に否定していくのに対し、第二の道は、自己とはあくまで起こっては消え現われては去って行く心的現象の自己であることを心に反省し、そのささやかではかない自分、しかもそのはかなさゆえにかえって威張りちらして勝手に生きているあさはかな自分を、それにもかかわらず安穏に生かさしてくれる神または仏等の慈悲・愛に感謝しながら生きようとする努力の道であります。

この方法の顕著な例は仏教では「南無阿彌陀仏」の道があり、もう一つはキリスト教のイエスへの帰依の信仰であります。浄土真宗の悪人正機、すなわち「善なほもて往生をとぐまして悪人をや」(歎異抄) とか聖書にある「幸福なるかな心貧しきもの、天国はその人のものなり」 (マタイ伝) 等の信条はこの道の要諦であり、これを他力の道といいます。

これに反し先に挙げた禅宗等は自力の道ということができます。ささやかで・さかしき心の自分を日々刻々生かし続けて下さる神仏に感謝しつくす時、自分を生かして下さる大きな力すなわち愛と慈悲に抱擁されている自分を発見します。

キリスト教でいわゆる“罪の子”がこの瞬間から“光の子”あるいは“神の子”に変わります。この、すべてを抱擁し生かしている愛と光の世界ーこれが言霊アの世界なのであります。

自己の本然の姿が宇宙それ自体と信じてそれの自覚を求める自力の第一の道と、現象界の中にはかなく現われては消える罪と業の深い自己をみつめながら、それを生かして下さる愛と慈悲の神仏の大きな力の恩恵に感謝して神の子の自覚に導かれる他力の第二の道は、言霊アの自覚において同じ掛着点に交わって一つ境地となります。

言霊アの自覚は人間の魂を束縛している原因が除かれた状態に立つことであって、自由の境地に遊ぶことができます。

ピカソの抽象画をご覧下さい。その中の人間は眼が横についていたり後ろについていたり頭の上に小鳥がとまっていたりして、まさに子供が落書きをしているようではありませんか、そうです。ピカソは実際に子供のごとく絵の中で遊んだのです。

遊ぶことのできる数少い画家の一人であったということができるでしょう。逆にピカソの具象画を見ましょう。彼はその絵の中で説くきびしく美を追及しています。絵を通して魂の自由を追及したのです。追及の結果美本来の境地に到達することができました。真善美といわれるその美の世界に没入することのできたピカソは、その世界の中で遊んだ (“ア”そんだ) のてした。それが彼の抽象画てす。落書に理屈をつけたら野暮というものです。

右のように魂の自由を得て、その広々とした境地に一生満足して遊んでいる人がいます。その人は、この世の中の出来事に巻き込まれて、朝から晩まであくせく働いている人を見ると馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。しかし言霊の自覚の道はこの段階がまさに第一歩であるに過ぎません。言霊の道はこれからが正念場なのです。伊勢神宮の本殿中央の真柱が五尺のうちの下二尺が地表下に隠されていることの真の意味は、これ以後の勉強によって解き明かされてくることになります。

/日々の生活の中では/

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そして、願いをビジョンしましょう。


◆/120日目:言霊を自覚確認する方法 復習/

今日は、復習をお願いいたします。

◆/120日目:言霊を自覚確認する方法 復習/

112目から、言霊を自覚確認する方法を学んで来ました。

今日は、一息ついて、ウ、オ、ア言霊を、実際に自覚確認できて
いるか、復習をしてみて下さい。

(備考)

ヨハネによる福音書の中に、

『初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。』

とあります。言を、言霊と読み直せば、

『初めに言霊があった。言霊は主と共にあった。言霊は神であった。
この言霊は初めに神と共にあった。
すべてのものは。これによってできた。
できたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
この言霊は命であった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。』

となります。

この聖書の御言葉は、日本に1万以上前から存在して言霊の原理をを知った上で読み直すと、ずどんと心に響くものがあります。

神様も私も言葉(言霊)から出来ているのですね。
なので、言葉(言霊)で、『光あれ!』と宣ふことができたのです。

不思議に、ヨハネも 四八音(48音のこと)とも書けます。

先日、お客様の方から、安藤けん雪著の
『世界の言語は元ひとつ』
副題:言霊と神代文字による21聖起人類へのメッセージ
の本の話が出ました。

すると、とんでもないことを伝えて下さいました。

この家系は書道家です。この方のお父さんだと思うのですが、昭和天皇に伊勢神宮に隠されている書の整理を頼まれたのだそうです。

そこには、古代の日本の神代文字が多数秘蔵されていて、日本には漢字以前には文字がなかったことが通例になっているが、そんなことはなく、日本には神代文字があることを知り大変に驚いたということでした。それが、伊勢神宮にも秘蔵されているということであるし、もちろん、天皇家はそのことをよく御存じだと言う事実です。

また、神代文字を身体の悪いところに直接書くと直るのだそうです。その現場を見たとおっしゃっていました。神代文字は宇宙のエネルギーを受け取る『ジ』でもあるのですね。

安藤先生の本は、下記で 1656円で入手できます。(^_^)。

コレクター価格は、1万円になっています。

世界の言語は元ひとつ―言霊と神代文字による21聖紀人類への最終メッセージ [単行本]

安藤 〓雪 (著)
https://amzn.to/2vvQnjn

すぐには信じられないと思いますし、
だからといって日本人は傲慢になってはいけません。
元の立場なので、はっきりといわず奥ゆかしい立場で
ある必要があります。謙虚、謙遜です。慈しみ深くです。

図の説明がついていて、
アヒル文字から ハングル文字が出来ていった流れが説明されています。

また、漢字も、
神名 => 殷字 => 卜字 => 天字 => 漢字=神字
と説明されています。

世界の古代文字のほとんどが、神代文字に一致して行くようです。

このあたり、死ぬまでにははっきりと証明したいものです。

(注意書きで下記のような記述があります。)
今の漢民族というのは、日本の王人(黄人)から分かれた黄人の御子孫が行かれて漢族(カム族)となったわけです。だから、日本人とよく似ています。元来は、ひとつなのです。ただ、日本は神国と言いましたが、中国は神国といえなかったためカン(漢)を使ったのです。韓国のカンもそうです。

韓国、日本、中国が、本当にひとつになるためには、古代のことが更に明らかになり、古代から理解しあうことが大切なようにますます思えます。そのための考古学であり言語学なのだと思えるようになりました。 

地球の愛と平和と創造のために、加速させなければ・・・
生きている内に達成したいと念願しています。

神念(信念)を頂いて生きて行きたいと思います。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
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と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。



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