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『全開学校』は、愛と才能を全開しあなたが喜びで幸せに生きるための学びを提供する学校です。

古事記と言霊講座61-80日目

古事記と言霊講座61-80日目

◆/61日目:五十音の整理・運用/

今日からいよいよ
後半へ入って参ります。

/五十音の整理・運用/
http://youtu.be/Tk4Jl12r2bU

フホハヘヒ=>ビー
と、
言霊をヒビ(日々)、ヒビ(響)かせて参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/62日目:この子を生みたまひしによりて/

古事記と言霊ページ137の最終行からの
学びです。

/この子を生みたまひしによりて/
http://youtu.be/nIR2uJTBWvY

フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊をヒビ(日々)、ヒビ(響)かせて参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/63日目:和久産巣日の神/

古事記と言霊ページ140からの学びです。

/和久産巣日の神/
http://youtu.be/by76IoSDstc

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/64日目の講座:かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて/

古事記と言霊ページ142からの学びです。

/かれ伊耶那美の神は、火の神を生みたまひしに由りて/
http://youtu.be/6IVyZOjMYrw

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/65日目:古事記と言霊 144ページ/

古事記と言霊ページ144からの学びです。

/古事記と言霊 144ページ/
http://youtu.be/l4JyW_Ewbt4

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。

◆/66日目:being 『ビーイング』は、存在している、the Beingは、『神』のことであった。/

毎日すこしの前進ですが、如何感じていらっしゃるでしょうか?

古事記を拝読させて頂く度ごとに、言霊に磨きを
掛けられている気持がしています。

不思議です。
古事記の持つ力なのだと思います。

英検一級を何度も目指して来ましたが、学びが途中で
どうしても挫折していました。

今は、同じ教本を読んでも単語が頭に入るようになって
来ました。

例えば、

heartとhurt
では、心のheartは、素直な『ア』母音の
発音であり、傷つけるのhurtの『ア』の母音は
巻き舌で発音する素直な母音『ア』の音では
ないので、傷つけるという意味になることが
何となく予測が出来るようになりました。

同じ理由で、

curse などあまり使わない単語があると、
今までは、まったく頭に入りませんでしたが、

ところが今は、

curse[k???s]の発音に敏感に反応できます。
巻き舌の『ア』なので、良くない意味ではと
推測すると、意味は、『呪い』でした。
http://ejje.weblio.jp/content/curse

これが、音感(音神)が育って来て、感じることが
できて来た語感(語神)という感覚だと思われます。

/being 『ビーイング』は、存在している、the Beingは、『神』のことであった。/

being
the Being

を自ら辞書で引かれたことがあるでしょうか?

一度も無いようでしたらぜひ自ら引いてみて下さい。

感動が違います。

http://ejje.weblio.jp/content/being

【名詞】 
1【不可算名詞】 存在,実存; 生存,人生.
2【可算名詞】
 a(有形・無形の)もの,存在物; 生き物; (特に)人間.
  用例  a human being 人間.
 b[B] 神.
  用例  the ( Supreme ) Being 上帝, 神.
3【不可算名詞】 本質,本性 〔of〕.

being = 存在
the Being = 神

です。

『ビーイング』と、振動(神動)していることが、
存在していることであり、
the を付けると 振動(神動)している存在そのものが
『神』ということを英単語は顕していました。

私も存在のために、『ビーイング』と響くこと、
振動(神動)することが、大切だったのです。

この講座の先天構造の理解に次ぐ大きな学びだと
思います。

『ビー』と響かせる大切を実感して下さい。(^_^)。

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/67日目:小豆島またの名は大野手比壱売/

古事記と言霊ページ144からの学びです。

/小豆島またの名は大野手比壱売/
http://youtu.be/6hp-WPHRHXE

言霊の中でも特に三十二の言霊子音を
『霊(ヒ)』または『光の言葉』と呼びます。

『ヒカリあれ!』の神様の御言葉は、
三十二言霊子音の創造であったと読み取れる
説明です。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/68日目:『古事記と言霊』ページ149/

古事記と言霊ページ144からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ149/
http://youtu.be/ujEa4cTzHIw

ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。次に御刀の手上に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。

 菅曽音図に基づいた五十音言霊の検討の作業は更に続きます。

 ここに伊耶那岐の命、御佩(みはか)せる十拳の剣を抜きて、その子迦具土の神の頚(くび)を斬りたまひき。
 ここに初めて古事記の文章に剣という言葉が出て来ました。古事記のみならず、各神話や宗教書の中に出る剣とは物を斬るための道具の事ではなく、頭の中で物事の道理・性質等を検討する人間天与の判断力の事を言います。形のある剣はその表徴物であります。この判断力に三種類があり、八拳、九拳、十拳(やつか、ここのつか、とつか)の剣です。

 十拳の剣の判断とはどんな判断かと申しますと次の様であります。十拳の剣とは人の握り拳(こぶし)を十個並べた長さの剣という事ですが、これは勿論比喩であります。実は物事を十数を以て分割し、検討する判断力のことです。実際にはどういう判断かと言いますと、十数とは音図の横の列がア・タカマハラナヤサ・ワの十言霊が並ぶ天津太祝詞音図(後章登場)と呼ばれる五十音図の内容である人間の精神構造を鏡として行なわれる判断の事を言います。この判断力は主として伊耶那岐の神または天照大神が用いる判断力であります。後程詳しく説明されます。

 迦具土の神とは前に出ました火(ほ)の夜芸速男(やぎきやを)の神・言霊ンの別名であります。古代表音神名(かな)文字のことです。頚(くび)を斬る、という頚とは組霊(くび)の意で、霊は言霊でありますから、組霊(くび)とは五十音図、ここでは菅曽音図の事となります。十拳の剣で迦具土の頚を斬ったという事は、表音神名文字を組んで作った菅曽音図を十拳の剣という人間天与の判断力で分析・検討を始めたという事になります。という事は、今までは言霊の個々について検討し、これからは菅曽音図という人間精神の全構造について、即ち人間の全人格の構造についての分析・検討が行なわれる事になるという訳であります。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/69日目:『古事記と言霊』ページ152/

古事記と言霊ページ152からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ152/
http://youtu.be/Zj48VGV1L_U

 ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神。次に根柝(ねさく)の神。次に石筒(いはつつ)の男(を)の神。

 御刀の前に著ける血、とは迦具土の頚(くび)である言霊五十音図を十拳の剣で分析・検討して人の心の構造がどの様になっているか、を調べて行き、御刀の前(さき)によって斬ったことにより判明した道理(血(ち))ということ。ここで御刀の「前」と殊更に言いましたのは、次の文章に御刀の「本(もと)」、御刀の「手上(たがみ)」と分析・検討の作業が進展して行く様子を示したものであります。

 湯津石村の湯津(ゆず)とは五百個(いほつ)の謎です。五百個(いほつ)とはどういう事かと申しますと、五母音の配列である菅曽音図の意味を基調として五十音図を作り、この五十音図を上下にとった百音図の事を五百個と申します。石村(いはむら)とは五十葉叢(いはむら)の意。湯津石村の全部で五百個の上半分の五十音図の意となります。湯津石村に走(たばし)りつきての走りつきてとは「……と結ばれて」または「……と関連し、参照されて」の意となります。

 成りませる神の名は、石柝(いはさく)の神
 五十音図を分析して先ず分ったのは石柝(いはさく)の神ということです。石柝とは五葉裂(いはさ)くの意。五十音図が縦にアオウエイの五段階の界層に分かれていることが分った、という事であります。即ち人間の心が住む精神宇宙は五つの次元が畳(たたな)わっている状態の構造であることを確認したのでした。人間の精神に関係する一切のものはこの五つの次元宇宙から表れ出て来ます。これ以外のものは存在しません。「五葉裂く」の道理は人類の宗教・哲学の基本です。

 この五つの次元の道理を世間の人々の会話の中で観察すると、そこに顕著な相違があることに気付きます。先ず言霊ウの次元に住む人同士の会話は、その各々の人がある物事について語り合う場合、各自の経験した事柄をその起った時から終るまで順序通りに羅列するように、一つの省略もなく喋(しゃべ)ります。従って会話は長くなります。若い者同士の電話の会話はその典型です。言霊オの次元に住む人の会話には抽象的概念の用語がやたらと飛び出します。所謂「〇〇的」という言葉です。社会主義新聞の論説はその良い例であります。次に言霊アの次元に於ては詩や歌が、言霊エの次元では「何々すべし」の至上命令が典型となります。言霊イの次元に住む人の口からは、言霊が、または他の四次元ウオアエの次元に住む人々それぞれの心に合わせた自由自在の言葉が出て来ます。以上、人間の心の進化の順序に従ってそれぞれの次元の会話の特徴についてお話しました。その人の会話を聞いていると、その人の心が住む次元が良く分って来ます。但し自分の心が住む次元より高い次元の話の識別は出来ません。・・・

 社会で使われる用語の中からいくつかを石柝(いはさく)の道理によって分類した表を左に図示します。(小笠原孝次氏著「言霊百神」より引用)

 次に根柝(ねさく)の神
 根柝(ねさく)は根裂(ねさ)くの事です。今検討している音図は菅曽音図のことで、母音がアオウエイと縦に並びます。その五母音の一番下は言霊イであり、五母音を一本の木と見れば根に当ります。その根の五十音の列は言霊イとヰの間に八つの父韻が横に並んでいます。その根を裂けば、八つの父韻の並び方の順序と、その順序に示されるように母音に始まり、半母音に終る現象の移り方がより確認されます。

 次に石筒(いはつつ)の男の神
 石筒は五葉筒(いはつつ)または五十葉筒の意です。五十音図は縦に五母音、五半母音または五つの子音が並び、これが順序よく人の心の変化・進展の相を示しています。また五十葉筒と解釈すれば、五十音図が縦に横に同様に変化・進展する相を知ることが出来ます。筒とはその変化・進展の相が一つのチャンネルの如く続いて連なっている様子を表わします。石筒の男の神の男(を)の字が附いているのは、その変化・進展の相が確認出来る働きを示すの意であります。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/70日目:『古事記と言霊』ページ156/

古事記と言霊ページ156からの学びです。

◆/70日目:『古事記と言霊』ページ156/

下記のアドレスをクリックして、
動画をご覧になって下さい。

/『古事記と言霊』ページ156/
http://youtu.be/NUoLqAsTv2g

 次に御刀の本に著ける血も、湯津石村(ゆずいはむら)に走(たばし)りつきて成りませる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。
 御刀の「前(さき)」から今度は「本(もと)」と五十音図表の整理・検討の段階が進展して来た事を示しています。始めに五十個の言霊を整理し、並べて和久産巣日の神なる音図、即ち菅曽音図を手にしました。次にその初歩的な菅曽音図を分析することによって五十音言霊自体で構成されている人間精神の構造を確認する作業が進んでいます。その人間の精神構造である道理(血)が「湯津石村に走り着きて」即ち五十音言霊図に参照されて、確認されましたのが甕速日の神という事であります。

 甕速日の甕(みか)とは五十個の言霊を粘土板に刻んで素焼きにした五十音図の事です。速日の日は言霊、速とは一目で分るようにする事の意。甕速日全体で五十音言霊図全体の内容・意味が一目で分るようになっている事の確認という事です。音図の内容の確認には大きく別けて二通りがあります。一つは静的状態の観察です。五十音言霊がその音図全体で何を表現しているか、を知ることです。どういう事かと申しますと、この五十音言霊図は菅曽音図か、金木音図か、または……と、この五十個の言霊が音図に集められて、全体で何が分るか、ということの確認です。これを静的観察と言います。

 次に樋速日(みかはやひ)の神
 樋(ひ)速日の樋(ひ)とは水を流す道具です。この事から樋速日とは言霊(日)が一目で(速)どういう変化・進展の相を示しているか、が分ることの確認という意となります。五十音言霊図では母音五つからそれぞれの半母音に渡す子音の実相の動き・変化の流れが一目で確認出来る事を言います。甕速日の静に対して、樋速日は動的な変化の確認という事が出来ます。

 ここで速日(はやひ)なる言葉が出て来ましたが、同様の意味の言葉に「早振り」があります。言霊の立場で物事を見ますと、その性状や内容が一目で分ることを言います。枕詞の「千早振る」も同様であります。

 次に建御雷(たけみかづち)の男の神。またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
 建御雷の建(たけ)とは田気(たけ)の意です。田とは五十音言霊図のことで、その気(け)ですから言霊を指します。雷(いかづち)とは五十神土(いかつち)の意で、五十音を粘土板に刻んだものです。自然現象としての雷は、天に稲妻(いなづま)が光るとゴロゴロと雷鳴が轟(とどろ)きます。同様に人間の言葉も精神の先天構造が活動を起すと、言葉という現象が起こります。言葉は神鳴りです。この神鳴りには五十個の要素と五十通りの基本的変化があります。この五十の要素の言霊と五十通りの変化の相とを整理・点検して最初に和久産巣日という五十音図(天津菅曽音図)にまとめました。次にその音図を十拳剣という主体の判断力で分析・検討して行き、石柝(いはさく)、根柝(ねさく)、石筒(いはつつ)の男と検討が進展し、甕速日(みかはやひ)という心の静的構造と樋速日という心の動的構造が明らかにされました。その結果として五十音言霊によって組織された人間の心の理想の構造が点検の主体である伊耶那岐の命の心の中に完成・自覚されたのであります。この精神構造を建御雷の男の神と言います。

 人間精神の理想として建御雷の男の神という五十音図を自覚しました。これを建御雷の神と書かず、下に「男の神」と附したのは何故なのでしょうか。初め伊耶那岐の命は妻神伊耶那美の命と共同で三十二の子音を生みます。それを粘土板に書いて火の迦具土の神という神代表音文字に表わしました。そこで伊耶那美の命の客体としての高天原の仕事は終り、美の命は高天原から客観世界の予母津国に去って行き、残る五十音の整理・検討は主体である岐の命の仕事となります。そこで整理作業によって最初に得た菅曽音図を主体の判断力である十拳剣で分析・点検して人間精神の最高理想構造である建御雷の男の神という音図の自覚を得ました。しかし人間の心の理想構造の自覚と申しましても、それは飽くまで主体である伊耶那岐の命の側に自覚された真理であって、何時の時代、何処の場所、如何なる物事に適用しても通用するという客観的證明をまだ経たものではありません。主観内のみの真理であります。その事を明示するために、太安万侶はこの自覚構造に建御雷の男の神と男の字を附けたのであります。

 またの名は建布都(たけふつ)の神、またの名は豊(とよ)布都の神。
 建布都(たけふつ)の建は田(た)(言霊図)の気(け)で言霊の事。布都(ふつ)とは都(みやこ)を布(し)くの意。都とは言霊を以て組織した最高の精神構造、またはその精神によって文明創造の政治・教育を司る教庁の事でもあります。豊布都の豊(とよ)は十四(とよ)で、先天構造原理をいいます。そこで建布都とは言霊を以て、豊布都は言霊の先天構造原理を以て組織された最高の人間精神の事であり、建御雷の男の神と同意義であります。建布都・豊布都は奈良県天理市の石土(いそのかみ)神宮に伝わる十種(とくさ)の神宝(かむたから)の中の神剣の名でもあります。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/71日目:『古事記と言霊』ページ161/

古事記と言霊ページ161からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ161/
http://youtu.be/NUoLqAsTv2g

次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出(いで)て成りませる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
 伊耶那岐・美の二神は共同で三十二の子音を生み、次に父母子音言霊四十九個を粘土板上に神代表音文字として刻み、素焼にして五十番目の言霊ンを得ました。子種がなくなった伊耶那美の命はここで高天原での役目を終え、客観世界である予母津(よもつ)国に去って行きます。主観である伊耶那岐の命はこれより言霊五十音を刻んだ埴土(はに)を整理する作業を進め、先ず最初に和久産巣日(わくむすび)の神なる五十音図(菅曽[すがそ]音図)にまとめました。次に岐の命は和久産巣日の神とまとまった五十音図で示される人間の精神構造を十拳剣で分析・総合することによって社会を創造するための理想の精神構造を主体的に自覚いたしました。この主体内にて自覚された理想の精神構造を建御雷(たけみかつち)の男(を)の神と言います。次に岐の命はこの建御雷の男の神の活用法の検討に入ることとなります。
 伊耶那岐の命の人間精神構造の検討の仕事が、初めに剣の「前(さき)」から「本」となり、此処では「御刀の手上(たがみ)」となり、検討の作業が進展して来た事を物語ります。ただ「前」と「本」とが「湯津石村に走りつきて」とありますのが、「手俣より漏き出て成りませる」と変わっているのは何故でしょうか。その理由は成り出でます神名闇淤加美の神、闇御津羽の神に関係しております。これについて説明いたします。

 伊耶那岐の命は菅曽音図の頚(くび)を斬り、人間の精神構造を検討するのに十拳剣を用いました。それはア・タカマハラナヤサ・ワの十数による分析・検討であります。この様に言霊によって示される構造を数の概念を以て検討する時、この数を数霊と言います。この十の数霊(かずたま)による検討は左右の手の指の操作で行う事が出来、その操作を御手繰(みてぐり)と呼びます。指を一本づつ「一、二、三、四……」と握ったり、「十、九、八、七……」と起したりする方法です。「御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣より漏き出て……」とありますのは、以上の御手繰りによる数霊の操作を表わしたものなのであります。太安万侶の機智の素晴らしさが窺える所であります。

 御手繰りの操作に二通りがあります。開いた十本の指を一つ二つと次々に折り、握って行く事、それによって宇宙に於ける一切の現象の道理を一つ二つと理解して行き、指十本を握り終った時、その現象の法則をすべて把握した事になります。この道理の把握の操作を闇淤加美(くらおかみ)と言います。十本の指を順に繰って(暗[くら])噛(か)み合わせる(淤加美[おかみ])の意です。そして十本の指全部を握った姿を昔幣(にぎて)と呼びました。握手(にぎて)の意です。また物事の道理一切を掌握した形、即ち調和の姿でありますので、和幣(にぎて)とも書きました。紙に印刷した金のことを紙幣と言います。金は世の中の物の価値の一切を掌握したものであるからであります。また昔、子供はお金の事を「握々(にぎにぎ)」と呼んだ時代がありました。

 御手繰のもう一つの操作の仕方を闇御津羽と言います。闇淤加美(くらみづは)とは反対に、握った十本の指を順に一本ずつ「十、九、八、七……」と順に起して行く操作です。指十本を闇淤加美として掌握した物事の道理を、今度は指を一本々々順に起して行き、現実世界に適用・活用して、第一条……、第二条……と規律として、また法律として社会の掟(おきて)を制定する事であります。掟とは起手の意味です。闇御津羽とは言霊を指を一本々々起して行く様に繰って(闇)鳥の尾羽が広がるように(羽)、その把握した道理の自覚の力(御津・御稜威[みいず])を活用・発展させて行く事の意であります。

 伊耶那岐の命は人間の精神構造を表わす埴土(はに)に刻んだ五十音言霊図を十拳剣で分析・検討することによって、主体内自覚としての理想の精神構造である建御雷の男の神を得ました。その構造原理を更に数霊を以て操作して、その誤りない活用法、闇淤加美、闇御津羽の方法を発見しました。五十音言霊による人間精神構造と数霊によるその原理の活用法を完成し、人間の精神宇宙内の一切の事物の構造とその動きを掌握し、更にその活用法を自覚することが出来たのであります。言霊と数霊による現象の道理の把握に優る物事の掌握の方法はありません。伊耶那岐の命の心中に於ける物事の一切の道理の主体的自覚は此処に於て完成した事となります。

 奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝わる言葉に「一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)と唱えて、これに玉を結べ」とあります。玉とは言霊のこと。言霊を数霊を以て活用することが、この世の一切の現象の把握の最良の理法であることを教えております。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
ルロラレリ =>リ
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。

◆/72日目の講座:縄文時代には既に神代文字があったことを学ぶ/

縄文時代には、既に日本には、
神代文字があり、高い精神性のある
文化が6000年以上前から
あったことが証明されています。

今まで語ったことの科学的な裏付け
となります。

役目を頂いてこつこつと研究されて
いる方がいらっしゃるのですね。

戦後70年にあたる2015年までに
すべて表に出てくる時代圏になって
いるのだと思います。

私の住んでいる大洲から南の
宇和島でも資料が発見されたことも
伝えています。

ここ大洲は、意味のあるところに
住んでいるようです。

ぜひ、ご覧になって下さい。

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-1
http://www.youtube.com/watch?v=Dm8zldpBVDU&feature=related

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-2
http://www.youtube.com/watch?v=fZZqcrlCmJg&feature=relmfu

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-3
http://www.youtube.com/watch?v=sFy96NceeGY&feature=relmfu

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-4
http://www.youtube.com/watch?v=2gaGgU5JGBk&feature=relmfu

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-5
http://www.youtube.com/watch?v=rTIIN_jO7mc&feature=relmfu

【ヲシテ文献】漢字渡来前の日本を探る【ch桜】6-6
http://www.youtube.com/watch?v=Uz2REa6BRKU&feature=relmfu

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。

◆/73日目:「ラ」の言霊と数霊の不思議なお話/


『ヒ』言霊を『ビー』を響かせるためには、
次は、ル=>ロ=>ラ=>レ=>リ
の言霊に目覚めることが大切だと思っています。

このルロラレリは、リズムを作り出す言霊の流れです。

下記に面白い書き込みがありました。
それを、今日は、御紹介させて下さい。

一昨日の講座で言った『数霊』とも絡めて説明しています。

http://itiguuoterasu.blogzine.jp/blog/2010/07/post_3bea.html
ドレミファソラシドnoteの、「ラ」の言霊と数霊の不思議なお話です。

※深田剛史著の『数霊』(マキノ出版)を参照

言霊っていうのは、何となく解るような気がすると思いますが、数霊っていうのは初めて聞く人が多いのではないでしょうか?

日本は古神道の国ですが、「地球上の万象万物は、宇宙生命の生成化育の原理から、『数霊』と『言霊』として表現され、万象と化成する。それが直ち万有の生命である」(『古神道入門』 小林美元著 評言社)

又、ピタゴラスも「宇宙間一切の事物の根元は数である」と言っています。

このように数霊は宇宙空間の果てから、人体の隅々に至るまで生命として呼吸をしながら、天と地と共に、神と人と共に、太古の昔から生き続けているのです。

そして、言霊と数霊は表と裏の関係に有り、表裏一体です。又、言霊から数霊へと変換したものを言霊数と呼びます。言霊数は解りやすく計算しやすいように表になっていて、アカサタナハマヤラワのア行が1から始まり5まで、カ行が6から始まり10までというように、言葉と数字が一対になっています。

この表でいくと、「ラ」の言霊数は41です。他にも言霊数41のものは、カミ(神)、テンタイ(天体)、ケツエキ(血液)、ヘソ(臍)、ノウカン(脳幹)・カンノウ(間脳)、サイノウ(才能)、シンネン(信念)、タツカン(達観)、サホウ(作法)、センニン(仙人)、コメ(米)などが有り、皆、神41が居て下さり重要なものばかりですね。

およそ1,200年前空海も、魂は何処にあるのか?を血脈(けちみゃく)という概念から説き、「血液(言霊数41)の中に先祖代々、子々孫々と受け継がれる尊い意識や魂がある」と教えています。

さて、生命の神秘、生まれたての赤ん坊の産声が441Hzなのだそうです。又、ピアノの調律も441Hzで音合わせをしますし、ギターなどのチューニングも441Hzを使って合わせます。CDの製造に使うサンプリング周波数は44,1Hzです。

ナント、この441Hzというのは「ラ」の音階なのです。ラの言霊数が41で、音階が441なのです。一見違う数字のように思えますが、どちらにも同じ41が入っています。このようなことを「神仕組み」というのだそうです。  ウ~ムsweat01 ムツカシイthink

又、神代の大昔、数の概念は一二三四五六七八九十百千万億(ヒフミヨイムナヤコトモチロラと読みます)までしかなく、「億」が最大の単位になっていました。この億をラと読みます。

そして、エジプトや中東の国々ではかつて、太陽神が最高の神とされており、その最高権威である太陽神を「ラー」と呼んでいました。

更に、およそ1万2千年前に突如海底に消えてしまったムー大陸。そこでは王のことを「ラ・ムー」又は、「ラー・ムー」と呼んでいたのだそうです。

このようにラの持つ言霊力、波動の偉大さは万国共通で普遍的なのですね。

又、音霊としてのラも大きな力を持っています。水に対してラの音階を聞かせると、他のどの音を聞かせた時よりも安定した波動になることが、知られています。水自身もラの音を聞くことで、最もストレスが溜まりにくくなるのだそうです。

水が言葉や言葉の持つ波動(言霊)をちゃんと理解している様子が、『水は答えを知っている』(江本勝著 サンマーク出版)に写真として多数出ています。

私も世界でただ一つ、唯一無二のオンリーワンの水を創っていますので、水が言葉や音楽、人の想いなどを転写し、記憶することがよ~く解ります。

これを活用すると、あまり高級じゃないコーヒーやお茶、お酒などを飲むときに、ラーと声を出して音を聞かせて上げるとイイかも知れないですね。きっと最高級品並に超オイシクupなるかも知れませんよ。(笑)

又、人間が汚れさせた(気枯れさせた)腐った(気去った)川に向かって、皆でラーと合唱するのも良いかもしれませんね。私は地球生命という考え方で良くお話しをしますが、その場合は川が血管で、そこを流れる水は血液になります。

その川が気枯れて(汚れて)、気去って(腐って)いるのです。日本におよそ2万本有ると言われる川のほとんど大半が、3面をコンクリートで固められて、溝や用水路になってしまっているのです。トンデモナイ大罪を犯してしまいました。もうそろそろ利口になって、無駄なダムや護岸工事は止めましょうよ。(怒)

地球生命(ガイア)の血管(川)が人間の手によって破壊され、作り変えられてしまったのです。そして血液(川の水)はドロドロに汚れ、しかもそれを汲み上げて水道水で使用しているのです。それに猛毒の塩素ガスをタップリ入れて殺菌・消毒し、気が(命が)全く無い死んだ水を飲んでいるのです。それで現代病や生活習慣病にならない方がオカシイでしょうsign02くれぐれも水には注意して下さい。

人間は地球上に存在する、あくまでも一生命に過ぎません。地球生命に生かされている存在なのです。そして地球生命と私達人間は常時にシンクロしています。常に共振共鳴しているので、海や川などの水の汚染、大気汚染、土壌汚染などは、そのまま人間に様々な病気という形で現れます。これが病気が多発している原因の一つです。自業自得と言ってしまえばそれまでですが、それでは済まされません。

是非知って欲しいことは、地球は危機でもなんでも無いsign03ということ。危機なのは人間と他の生命達です。一人ひとりが小さな事でも出来る事から始めて行くしか有りませんが、出来るだけ早く意識を変えて、より良い方向へと、皆で頑張りましょう。

最後に、最近あまり騒がれなくなりましたが、一時“ラ抜き言葉”が問題になりました。ラが抜けてしますと、そこにおわす神がおられませんので、いかにも軽くなり、言葉に力がなくなってしますのですね。「食べれるよ」は⇒「食べられるよ」、「答えれます」は⇒「答えられます」ですよね。又、作法の言霊数も41でしたね。この作法の言葉からも、いかに躾けが大事で、大切かということが解りますよね。今の日本に欠けているものばっかりです。正しく美しい日本語を使いましょう。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
ルロラレリ =>リ
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/74日目:『古事記と言霊』ページ165/

古事記と言霊ページ165からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ165/
http://youtu.be/IOK3WjIN7kw

 殺さえたまひし迦具土の神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。次に胸に成りませる神の名は、淤縢(おど)山津見の神。次に腹に成りませる神の名は、奥(おく)山津見の神。次に陰に成りませる神の名は、闇(くら)山津見の神。次に左の手に成りませる神の名は、志芸(しぎ)山津見の神。次に右の手に成りませる神の名は、羽(は)山津見の神。次に左の足に成りませる神の名は、原(はら)山津見の神。次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見の神。かれ斬りたまへる刀の名は、天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ。

 先に伊耶那岐の命は五十音言霊によって構成された迦具土の神を十拳剣で分析・検討して、斬った主体側の真理として建御雷の男の神という人間精神の理想構造を自覚いたしました。今度は十拳剣で斬られて殺された客体である迦具土の神からは何が生まれ出て来るのでしょうか。迦具土の神とは言霊五十音を粘土板に彫り刻んだ神代表音文字の事でありますから、斬られる客体である迦具土の神から表われるのは神代表音文字の原理・道理の事であります。言い換えますと、一つ一つの表音神代文字が言霊の原理の中のどの部分を強調し、どの様な表現を目的として作られたか、の分析・検討であります。

 古事記の子音創生の所で説明されました大山津見の神は言霊ハ、即ち言葉の事でありました。大山津見の山とは八間のことで、図形で表わされる八つの父韻の活動する図式であり、この父韻の活動によって言葉が現われて来ました。山津見とは八間の原理から(山)出て来て(津)形となって現われたもの(見)の意でありました。大山津見の神は言霊ハとして言葉を意味しますが、ここに登場する八つの山津見の神は、言葉を更に文字に表わしたものの謂であります。その神代表音文字の作り方に古事記は代表的なものとして八種の文字原理を挙げております。ここに登場します正鹿山津見、淤縢山津見、奥山津見、闇山津見、志芸山津見、羽山津見、原山津見、戸山津見の八神がそれであります。

 竹内古文献等の古文書、または神社、仏閣に伝わる日本の古代文字を調べますと、六十種類以上の神代表音文字が存在すると伝えられています。また奈良県天理市の石上神宮に伝わる十種(とくさ)の神宝(かむたから)の中の蛇の比札(ひれ)・百足(むかで)の比札・蜂の比札・種々物(くさぐさもの)の比札といわれるものは明らかに古代表音文字であります。比札とは霊顕(ひれ)とも書き、霊(ひ)は言霊であり、顕(れ)は現われるで文字である事を示しています。ただこれ等数十種類の神代文字が、古事記に示される八種の山津見の神の文字作成法の何(いず)れに属するものなのか、の研究が進んでいません。言霊学研究の先輩である山腰明将氏、小笠原孝次氏と継承された古代文字に関する見解を踏襲してお伝えいたしますが、今回は簡単な図表形式にして示しました。詳しくは「古事記と言霊」の中の「神代文字の原理」をお読み下さい。尚、石上神宮の十種の神宝の中の四種類の比札(文字)は同書171頁を参照下さい。

 女島(ひめしま)又の名は天一根(あめひとつね)
 以上の八つの神代表音文字の構成原理が人間の心の宇宙の中に占める区分を女島(ひめしま)と言います。女島の女(ひめ)は女(おんな)と呼び、即ち音名であり、それは文字の事となります。また文字には言葉が秘められています。即ち女(ひめ)島であります。またの名、天一根(あめひとつね)とは、神代文字はすべて火の迦具土の神という言霊ンから現われ出たものでありますので言霊(天)の一つの音でそう呼ばれます。

 かれ斬りたまへる刀(たち)の名は天の尾羽張(おはばり)といひ、またの名は伊都(いつ)の尾羽張といふ。
 迦具土の神の頚(くび)を十拳剣で斬り、斬る主体である伊耶那岐の命の側に建御雷の男の神という人間精神理想の構造原理が自覚され、また斬られた客体側に神代表音文字の八種の構成原理が発見されました。尾羽張(おはばり)とは鳥の尾羽が末広がりになる姿で、この十拳剣を活用すれば人間社会の文明は彌栄(いやさか)に発展する事が可能となります。その為にこの十拳剣の判断力(分析・総合)に天の尾羽張り、またの名伊都の尾羽張の名が付けられのであります。天(あめ)とは先天または天与の意であり、伊都(いつ)とは御稜威(みいず)の意であります。御稜威とは力または権威という事です。

 この尾羽張の剣の判断力の活用は古来全世界の神話・宗教書に書かれました。ギリシア神話にオリオン星座(Orion, Oharion)が取上げられています。この星座の十字形が時間と空間を縦横に斬る十拳剣の分析と総合の人間天与の判断力の活用の象徴として説かれています。また旧約聖書のヨブ記に同様の記述があります。「ヱホバ大風の中よりヨブに答えて宣(のた)まはく、……なんじ昴宿[ぼうしゅく](スバル星)の鏈索(くさり)を結び得るや。参宿[さんじゅく](オリオン)の繋縄(つなぎ)を解き得るや。なんじ十二宮をその時にしたがひて引いだし得るや。また北斗とその子星を導き得るや。……」私は初めてこの聖書の文章に出合った時、宗教で謂う救世主(ヨブはイエス・キリスト以前のキリストと呼ばれます)は記述の如き超能力の持主なのか、と思ったものでした。言霊布斗麻邇の学に出合うに及び、この様な神話や宗教書の中の文章がすべて太古に世界に流布されていた言霊学の心と言葉の原理に基づく記述であることを知り、神と人間との関係という問題を解決する事が出来のであります。

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◆/75日目:『古事記と言霊』ページ172/

古事記と言霊ページ172からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ172/
http://youtu.be/hZdUQAgtFeU

 古事記の文章が「黄泉国」の章に入ります。

 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。
かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、蛆(うじ)たかれころろぎて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。

 ここにその妹伊耶那美の命を相見まくおもほして、黄泉国(よもつくに)に追ひ往(い)でましき。

 文章をそのまま解釈しますと「伊耶那岐の命は、先に高天原の仕事を終え、本来の自らの領域である客観世界の国である黄泉国(よもつくに)に去って行った伊耶那美の命に会いたいと思い、高天原から黄泉国に伊耶那美の命を追って出て行きました」という事になります。けれど事の内容はそう簡単なものではありません。伊耶那岐・美の二神は共同で言霊子音を生み、生み終えた伊耶那美の命は客観的文明世界建設のため黄泉国に去って行きます。伊耶那岐の命は唯一人で五十音言霊の整理・運用の方法を検討し、終に自らの主観内に於てではありますが、人類文明創造の最高原理である建御雷の男の神という精神構造を発見・自覚することが出来ました。さてここで、伊耶那岐の命は自分の主観の中に自覚した創造原理を客観世界の文化に適用して、誤りなくその文化を人類文明に摂取し、創造の糧として生かす事が出来るか、を確認しなければなりません。その事によってのみ建御雷の男の神という主観内真理が、主観内真理であると同時に客観的真理でもある事が證明されます。以上の意図を以て岐の命は黄泉国に美の命を追って出て行く事となります。

 この文章に黄泉国(よみのくに、よもつくに)の言葉が出て来ました。古事記の中にも上記の二つの読み方が出て来ます。特にその欄外の訳注に「地下にありとされる空想上の世界」(角川書店)とか、「地下にある死者の住む国で穢れた所とされている」(岩波書店)と書かれています。また「黄泉の文字は漢文からくる」ともあります。すべては古事記神話の真意を知らない人の誤った解釈であります。黄泉(こうせん)の言葉は仏教の死後の国の事で、古神道布斗麻邇が隠没した後に、仏教の影響でその様な解釈になったものと思われます。また「よもつくに」を予母都国、または四方津国と書くこともあります。予母都国と書けば予(あらかじ)めの母なる都の国と読めます。人類一切の諸文化は日本以外の国で起り、その諸文化を摂取して、言霊原理の鏡に照し合わせて人類全体の文明として取り入れ、所を得しめるのが昔の高天原日本の使命でありました。四方津国と書けば、その日本から四方に広がっている外国という事となります。また外国は人類文明に摂取される前の、予めなる文化の生れる母なる都、という訳であります。

 ここに殿の縢戸(くみど)より出で向へたまふ時に、

 縢戸をくみど、とざしど、さしどなどとの読み方があります。また殿の騰戸とする写本もあります。この場合はあげど、あがりどと読むこととなります。縢戸と読めば閉った戸の意であり、高天原と黄泉国とを隔てる戸の意となります。騰戸と読めば、風呂に入り、終って上って来る時に浴びる湯を「上り湯」という事から、別の意味が出て来ます。

 殿とは「との」または「あらか」とも読みます。御殿(みあらか)または神殿の事で、言霊学から言えば五十音図表を示します。五十音図では向って右の母音から事は始まり、八つの父韻を経て、最左側の半母音で結論となります。すると、事が「上る」というのは半母音に於てという事となり、騰戸(あがりど)とは五十音図の半母音よりという事と解釈されます。高天原より客体である黄泉に出て行くには、半母音ワ行より、という事が出来ます。騰戸(あがりど)と読むのが適当という事となりましょう。
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◆/76日目:『古事記と言霊』ページ176/

古事記と言霊ページ176からの学びです。

/『古事記と言霊』ページ176/
http://youtu.be/SMU6XU_gi-k

 伊耶那岐の命語らひて詔りたまひしく、「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、吾と我と作れる国、いまだ作り竟(を)へずあれば、還りまさね」と詔りたまひき。

 伊耶那岐の命は伊耶那美の命に語りかけました。「愛する妻神よ、私と貴方が力を合わせて作って来た国がまだ作りおえたわけではありません。これからも一緒に仕事をするために帰って来てはくれませんか。」岐美の二命は共同で言霊子音を生み、次に岐の命は一人で五十音言霊の整理・運用法を検討し、建御雷の男の神という文明創造の主観原理を確認しました。この主観内原理が客観的にも真理である事が確認された暁には、また岐美二神は力を合わせて人類文明を創造して行く事が出来る筈です。ですから帰ってきて下さい、という訳であります。

 ここに伊耶那美の命の答へたまはく、「悔(くや)しかも、速(と)く来まさず。吾は黄泉戸喫(へぐひ)しつ。然れども愛しき我が汝兄(なせ)の命、入り来ませること恐(かしこ)し。かれ還りなむを。しまらく黄泉神(よもつかみ)と 論(あげつら)はむ。我をな視たまひそ」と、

 伊耶那美の命は答えました。「残念な事です。お別れして直ぐに尋ねて来て下さいませんでした。その間に私は自分の責任領域である外国の客観世界の学問や言葉を覚えてしまいました。けれど愛する貴方様がわざわざ来て下さった事は恐れ多い事ではあります。ですから帰ることにしましょう。しかし、その前に外国の学問や文字の神々と将来の事を相談しなければなりません。その間私の姿を見ないで下さいね」と。黄泉国の学問・文化はまだその頃は研究が始まったばかりで、はっきりした成果があがっていない事を伊耶那美の命は恥ずかしく思い、姿を見ないで下さい、と言ったのであります。

 かく白(もお)して、その殿内(とのぬち)に還り入りませるほど、いと久しくて待ちかねたまひき。

 そう言って伊耶那美の命はその責任領域である客観世界に還って行きましたが中々出て来ません。伊耶那岐の命は待ち草臥(くたび)れてしまいました。客観的物質文明はこの揺籃時代より今日まで、その建設に四・五千年を要した事を考えますと、岐の命が待ち草臥れた、という事も頷かれます。

 かれ左の御髻(みみづら)に刺させる湯津爪櫛(ゆつつまくし)の男柱一箇(をはしらひとつ)取り闕(か)きて、一(ひと)つ火燭(びとも)して入り見たまふ時に、

 髻(みづら)とは古代の男の髪の形の一種で、頭髪を左右に分けて耳の辺りで輪にします。湯津爪櫛とは前出の湯津石村と同じで、湯津とは五百箇(いはつ)の意であります。五数を基調とした百箇の意。爪櫛(つまぐし)とは髪(かみ)(神・五十音言霊)を櫛(くし)けずる道具です。五十音図は櫛の形をしています。そこで湯津爪櫛の全体で五十音言霊図の意となります。男柱とは櫛を言霊図に喩えた時の向って一番右側の五母音の並び、言霊アオウエイの事であります。その一箇(ひとつ)ですから五つの母音の中の一つの事を指します。妻神伊耶那美の命恋(こい)し、と思う心なら言霊アであり、黄泉国の様子に好奇心を持ってなら言霊オとなりましょう。その一つの心でもって黄泉国の中に入って行って、その国の客観的世界の有様をのぞき見たのであります。

 蛆たかれころろぎて、

 伊耶那岐の命が黄泉国の中をのぞいて見ると、伊耶那美の命の身体には蛆(うじ)が沢山たかっていた、という事です。蛆(うじ)とは言霊ウの字の事を指します。言霊ウの性能である人間の五官感覚に基づく欲望の所産である種々の文化の事を謂います。この頃の客観世界の物質文化はまだそれ程発達しておらず、高天原の精神文化程整然としたものではなかったのです。その雑多の物質科学の研究の自己主張が伊耶那美の命にたかり附いて、音をたてていた、という事であります。「ころろきて」とは辞書に「喉(のど)がコロコロと鳴る様」とあります。

 頭(かしら)には 大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほ)の雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には柝(さく)雷居り、左の手には若(わき)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并せて八くさの雷神成り居りき。

 雷神(いかづちかみ)とは、五十神である五十音言霊を粘土板に刻んで素焼にしたもの、と前に説明した事がありましたが、ここに出る雷神は八種の神代表音文字である山津見の神のことではなく、黄泉国外国の種々雑多な言葉・文字の事であります。高天原から黄泉国に来て暫く日が経ちましたので、伊耶那美の命の心身には外国の物の考え方、言葉や文字の文化が浸みこんでしまって、そのそれぞれの統制のない自己主張の声が轟(とどろ)き渡っていた、という事であります。ここに出ます黒雷より伏雷までの八雷神は黄泉国の言葉と文字の作成の方法のことで、言霊百神の数には入りません。

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◆/77日目:『歴史の担い手』/

下記は、2009年に亡くなられた島田正路先生の書かれた文章です。

今、古事記を通して人類の歴史を学んでいます。

難しい文章ではありますが、何度も読み直すと、深みが増して
感動が深まります。

/『歴史の担い手』/

翻って眼をつぶって耳を塞いで何も見えない、何も聞こえない宇宙。そうやってジーッと坐っておりますと外界の物事が消えていってしまいます。

ないことになる、その宇宙の本体を知ってしまいますと何もしないけれど、何かすること、なすこと「有り難い」と思う。

ある人が泥棒に入られました。「婆さん金を出せ」、「あらっ、珍しい、泥棒に入られたのは初めて、あなた、もうちょっとお話しませんか」、その泥棒はビックリして後ずさりして一目散に逃げ出した。

それは余談ですが、何にもない宇宙が、初めに何だか分らないけれど、何かポツンと始まったという宇宙に変わった。これが‘ウ’の宇宙と申します。

人間が考える前の話です。その何かが始まった何かは「何だろう」って。そこで‘ア’と‘ワ’に剖れます。意識できる私、「腹減った」と言っている私です。それが宇宙剖判(ぼうはん、開闢の意)です。

先天構造の中で考えますと、何にもない宇宙、そこから何か芽生えた宇宙(ウ)から、芽生えた何かが「腹減った」と意識する宇宙(ア・ワ)に剖判。

アはオ・エ、ワはヲ・ヱに又、宇宙剖判して、お腹が空いたから何か食べよう、冷蔵庫にはなにもない、買い物へ行くか、ということになります。

実際に眼に見える現象は、頭の中でこのような宇宙剖判することによって、人間の行動や考え方が出てまいります。この宇宙剖判は何処で行われているのか、昨日でもない、明日でもない、何時でも何処でも「今ここ」です。

言霊五十音と申しますのは今ここの働き。明日はございません。昨日もない、常なる「今」です。永遠なる今に働いております。

「今」と申しますのはイ・ヰである伊耶那岐命・伊耶那美命の居る間(マ)です。そして人間の最も尊い道は生命(イの道)です。

「いる」と申しますのは、全部知っていながら何もしないこと。何かする時にチイキミシリヒニの八父韻が発動いたします。

それを「いきる」と申します。それから森羅万象が生まれます。どんな人でも宇宙が発動して生きております。

ですから宇宙の子、神の子、そんなこと知らなくても、自覚せずとも宇宙の子、神の子です。それを自覚した時に眼に見える仏となる。

古事記と言霊に書いてある一切のことを自分の心の中で検証してしまい、天の御中主の神から三貴子までの百神である心の構造を「これはこうだよ」と言える人が、この世の中に二三人現われたら、人類の歴史はどんでん返しする。

何の野外活動は必要ございません。自分の居る所が道場ですから、その道場で自分の心はこのようになっていると検証された時に、その時々に必要な人間の心の魂が揺り動かされて、思い通りのことが起こってくる。何のためらいもなく、夫々のミコトに応じて立ち上がってまいります。

このことは仏教の法華経に「従地涌出の菩薩」として書かれております。何の資格もない、何の肩書きもない、気運に応じてぞくぞくと出てきて、この世の中のどんでん返しのドラマを遂行します、その時は既に迫っております。

何のことはありません。古事記に書かれていることを自分の心の中で検証さえすれば良いことです。一人の人が自分の心の構造が分かりますと、全人類の心の中に火が点ります。人間の心は今申し上げましたように宇宙ですから。

自覚した人が自分の計画した通りに動き出します。自分の運命に応じて自発的に動きます。今までの三千年の歴史をひっくり返す。一度この学問が出てきましたら、もう隠れることはございません。そのことは石上神宮の鎮魂詩にございます。

「みたまあがり、去にませし神は今ぞ来ませる。魂箱もちて去りたるみたま、魂返しなせそ。」

学問として埋もれていた言霊が必ずそのことを約束しております。私が今申し上げたことは必ず起こる。これは魂の底の底から検証された真実ですから否定のしようがございません。

「古事記と言霊」講座
(H14.11講習会収録)
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ここで学ばれている皆様は、歴史の担い手だと思います。

/日々の生活の中では/

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そして、願いをビジョンしましょう。


◆/78日目:『歴史の担い手2』/

下記は、2009年に亡くなられた島田正路先生の書かれた文章です。

今、古事記を通して人類の歴史を学んでいます。

難しい文章ではありますが、歴史の担い手2として、ご紹介させて頂きます。

/『歴史の担い手2』/

この立場に立つ人を天津日嗣スメラミコトと呼びます。天津日とは人間精神の先天構造原理である言霊布斗麻邇の原理のことであり、嗣とは継承保持するの意であります。

太古の天皇(スメラミコト)もそのような人でありました。スメラミコトとは命(みこと)を統(す)べるの意であります。人類を構成する人間一人(ひとり)一人はみなこの世に生まれて使命を持って生きています。

それら一人一人の命にそれぞれ所を得しめ、その上で人類全体の調和が保たれるよう統べる人の意であります。人類の第一精神文明時代のスメラミコトがそうであった如く、今、開かれようとしている人類の第三文明時代の創造責任者も同様の自覚者でなければならないでありましょう。

このようにお話すると、「スメラミコト」なる人は、努力に努力を重ね、人間として今までにない新境地を拓(ひら)いた人、または何処からか地上に舞い降りた神様の如き特異な超人間的人物であろうと思われるかも知れない、としたらそれは全くの誤解です。

何故そう言い切れるのか。それは日本人の大先祖が私達に遺したアイウエオ五十音言霊学というものが平凡な人間の心の全構造とその動きを説いた学問だからであります。

この学問を修得したからといって、超人間的な偉い人になる訳がありません。自分という何といって取り立てる所のない人間の心の構造を知った、というに過ぎないのですから。

またこれもよく聞く話ですが、「言霊学というのは世界人類を統治するスメラミコトの学問であって、私達自分の幸福のことばかり考えている人間には所詮及びもつかない高処(たかみ)の学問なのだ」というようなことも見当違いの考えなのです。

人間はこの世に生まれた時から基本的に五つの性能を授かっています。言霊ウ(五官感覚に基づく欲望性能)、オ(経験知性能)、ア(感情性能)、エ(実践智性能)、イ(生命創造意志性能)の五性能です。

この五つの性能は人がその性能を意識的に知っても、知らなくても、この社会の中で生きて行くのに十分間に合うように働いて呉れています。「そうなら言霊学を学ばないでもいいではないか」と思われるかも知れません。でもそれは暴論というものです。特に現代の如く教育が偏跛になり、知識偏重の時代では、自分達だけの幸福しか望んでいない、という家庭にも教育頽廃の波は打ち寄せて来ます。

テロや暴力行為も他人事では済まされない事態になって来ました。今の世の中は何処かおかしいのです。だとしたら今、何とかしなければならないではありませんか。そこでちょっと考え方を変えてみて下さい。一つの例を取り上げましょう。何か自分または家族の身の上にトラブルが起ったとしましょう。自分(達)のことですから何とか処理しなければなりません。

こっちへぶつかり、あっちにぶつかりしながら、自分の持っている経験知を総動員して考えます。それで円満解決なら目出度しです。もし解決出来なかったら、方法を変えて言霊学にお出まし願ってみたらどうでしょう。

「言霊学にお出ましを」とはどういうことなのでしょう。それは処理しなければならない事態に対処する自分の心を言霊学の法則に従って考えることです。子供が登校しなくなりました。聞いても答えてくれません。親の目で見れば、それが勉強が分からなくなってしまったとか、いじめだとか、……であることは分かりましょう。ではどうしたらよいか、となると中々難しい事となります。

この時、そのトラブルが言霊学でいうウの次元か、オの次元で起っている、と気付くことから始まります。言霊ウとかオとかの言葉が出て来れば、それは言霊学の法則によって考え出したことになります。

親はそれまで言霊ウの欲望の世界や言霊オの学問の世界では、他人にそれ程遅れをとるとは思っていませんでした。自信もあったのです。けれど今回の子供の出来事でその自信も吹き飛んでしまいました。どうしたらよいか、分からなくなりました。

この時です、言霊学の門をくぐるのは。「自分は今まで自らの力でこの世の中を乗り切って行く力を十分持っていると思っていた。けれど今回の子供の事件でつくづく自分の無力を思い知らされた。

この無力な自分が今日まで大過なく暮らして来られたのは、ウとオを常に抱くように慈しみ愛して下さっている言霊アの自分の生命の次元のお陰に他ならない。今日まで生きて来られたこと自体奇蹟だったのだ。何と有り難いことであった」と知ることとなります。この親は言霊学五つの母音の中のウオアの三母音を知ったことになります。

上の心中の出来事は、宗教でいえば信仰の態度ということになりましょう。しかし、この親である人は、信仰を事としたわけではありません。「神」なる言葉も使いません。言霊ウ・オ・アの三音を以って信仰の何たるかを見事に体験・自覚したことになったのです。言霊学の中身に一歩踏み込んだことになります。

そして言霊学の言葉で自分自身の心の内容を検証した事は、この人自身の魂に百八十度の転換が起った事ともなります。「えっ、ウオアの三つの母音の内容だけを知ることがそれ程重大なことなのですか」といぶかる方もいらっしゃるでしょう。そのことについて少々お話申上げましょう。

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。これに生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。」(ヨハネ伝一章)

先月号にも取り上げましたヨハネ伝の言葉です。またこの言(ことば)とは言霊である、とも書きました。太古、言霊(ことたま)のことを一音、霊(ひ)とも呼びました。言霊が活動すること、それは霊が走る霊(ひ)が駆(か)ける、で光(ひかり)となります。

言霊は人の心の今・此処に於て「魂の光」として活動して万(よろず)の物、即ち森羅万象を生みます。二千年以前、神倭朝第十代崇神天皇が方便として言霊原理を世界の表面から隠してしまって以来、日本も世界も世の中は精神的暗黒の闇に閉ざされました。貧困、飢餓(きが)、戦乱、病災、交々(こもごも)起り、お釈迦様は八苦の娑婆(しゃば)と呼びました。

すべては社会から「光」が消えたがための出来事です。その光が、言霊原理が漸くこの世の中に戻って来ました。「みたまあがり、去にませし神は今ぞ来ませる。魂箱もちて去りたるみたま、魂返へしなせそ」(石上(いそのかみ)神宮鎮魂歌)。

今、その魂箱である言霊五十音原理の「さわり」の母音ウオア三音によって自己の心の構造を検証した人は、復活した言霊の「光」を世に先駆けて真実の光の灯(ひ)を高々と頭上に掲げた方々なのです。

人類の二、三千年の暗黒の歴史の中から因縁によって奇しくも一人立ち上がり、言霊の灯の下に新しい光明の時代を築くパイオニアとして光の中に飛び出すことが出来た新しい歴史の創造者なのです。

宗教信仰は言霊アの世界へ人を導きます。この境涯は限りなき愛と慈悲の心で人を包んで下さることを知ります。それ故に自らも他人を限りなく愛と慈悲の心で接しなければ、と決意します。

けれど前に申しました如く、この愛と慈悲は人対人との間のみであり、人対人類、人対世界の問題には観念のみの祈り以外、何の実効ある行動を教えてはくれません。それ以後の行動と判断の指針は世界でただ一つ日本の古神道、言霊布斗麻邇の学の独擅場(どくせんじょう)なのであります。古事記の言葉を借りて言えば、科学は須佐男命、哲学・宗教・芸術は月読命、そして言霊布斗麻邇こそ天照大神の実体なのであります。

言霊はすべて五次元の中の言霊イの次元に、時間としては今(イの間)に、場としては此処に生命(いのち)(イの道)として存在し、活動しています。言霊イの次元には言霊以外のものは存在しません。

人類は幾十億いようとも、イの次元に於てはただ一つの共同体なのです。この消息に精通するまでは理解し難いかも知れませんが、言霊原理に即した如何なる言葉も一度理解し、これを言葉として表現したならば、全世界の人々の魂の中に光の活動となって影響を与えることとなります。

その人は既に新しい歴史創造の担い手なのです。受け取る人の意識がそれを知る、知らないに関わりなくであります。言霊のウオアの三母音によって自分の生命のホンの一部でも検証することが出来た方は、ご自分の良心に従って検証を続け、母音の階段を更に登って行かれる事を希望します。

そしてその人の居る場がそのまま光の発信所となります。大声で演説することも、デモることも、共同して何かすることも必要ありません。話が随分長くなりました。これが私の「歴史創造」の話の前提条件となります。今後の新文明時代創造の話を聞いて下る方々が、上記のような人達であると認識し、希望して話を進めようと思います。

実際の歴史創造の話が一ヶ月先送りされてしまいました。御了承くだされば幸いであります。次号では三つのキイ・ワードの内容を年代順に並列させた年表を描き、歴史の現在をそのイラストと参照しながら日本と世界の歴史の今後のお話をすることといたします。

【収蔵】会報第二百十号(平成十七年十二月)

ここで学ばれている皆様は、歴史の担い手だと思います。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/79日目:『歴史の担い手3』/

下記は、2009年に亡くなられた島田正路先生の書かれた文章です。

今、古事記を通して人類の歴史を学んでいます。

難しい文章ではありますが、歴史の担い手3として、ご紹介させて頂きます。

/『歴史の担い手3』/

 人類の第一精神文明時代、それに次ぐ第二の物質科学文明時代の一万年の歴史が、ここに於て大きく転換して、人類の第三文明時代に入ろうとする時、その第三文明創造という重大な使命を担う三つの存在――日本の皇室、ユダヤ民族の予言者、それに言霊の会が如何なる状態にあるか、をお話して来ました。

 そこでこの三つの存在とその働きがお互いにどの様に絡み合って行くのか、その先に何が見えるようになるのか、が今月号の話となります。

 このようにお話を進めてまいりますと、賢明な読者の中には現世界の成行とそのゴールとを推察される方もいらっしゃることと思いますが、しかし、これよりお話申し上げる日本と世界の動向は小説家が好き勝手に書く歴史小説でも、新聞記者のスクープでもありません。

 また霊能による「当るも八卦、当らぬも八卦」的な占(うらない)でもありません。人類の文明創造という意図により、「人の心とは何か」を完璧に自覚・表現したアイエオウ五十音言霊の原理に基づく皇祖皇宗の御経綸から見て「必ずこうなる」という宣言であります。

 人間に与えられた精神の全機能を以ってまとめ上げられた、計算し尽くされた結果であります。この事に関して、歴史の予言というものが如何なるものなのか、を御理解頂くために当会発行の「古事記と言霊」の後編「歴史編」の「歴史創造の心」の一説を引用することといたします。

 『度々言うことであるが、世界の各地でてんでばらばらに営まれる人々の行為の合計がそのまま世界の歴史であるのではない。天津日嗣天皇(あまつひつぎすめらみこと)の文明創造の経綸即ち人間を人間たらしめている言葉の限りなき発展が人類の歴史である。

 それ故に天津日嗣である、人間という種(スピーシー)の究極の精神原理である布斗麻邇の自覚に立つ時、言い換えるならば人間精神の実在体であるアオウエイ五母音の重畳する構造を確認し、その実在より発現する諸実相の色相変化の原律である八父韻の認識を完成する言霊イの創造親神の立場に立ち、言霊アである大慈悲の心より人類の歴史を見る時、我とは人類であり、人類の歴史とは我の歴史に他ならず、それ故に世界の歴史の流れの中で、過去にあり現在に起りつつ歴史現象のすべては、永遠の生命を享け継ぐ我自らが“そうあれ”また“かくあれ”と決定し創造し来ったものであることが明らかに了解されるのである。

 それ故にこそまた世界人類のすべての声を自己の生命全体で聞き、これに新しい生命の息吹を与えて言霊原理に則り“かくあれ”と決定し宣言し、その如く実現することが可能である。宣言は当為であり、宗教に於ける基本要求などではないからである。以上の如き世界歴史経綸の大慈大悲の心を天津日嗣の大御心と呼ぶのである。』(「古事記と言霊」三四六~七頁)

 前書が長くなりました。結論に入ることにしましょう。第二のキイ・ワードであるユダヤが意図する世界の国家、民族の再統一とは具体的に言うとどういう事なのでしょうか。

 簡単に表現すれば政治体制に於いては世界民族の民主政治化であり、経済的に言えば、全国家が一経済圏としてまとまることであり、また全国家の報道の自由化でもある。とするならば、ユダヤの全世界統一の事業は略々完成に近づき、残るのはその仕上の仕事だけということが出来るでありましょう。

 イラクは内紛は残るものの以前の独裁国家に戻ることは有り得なくなりました。イランは新しい大統領が民族の自主性を煽っていますが、その勢いは先が見えています。北朝鮮は中々頑張っていますが、中東情勢が沈静化すれば、唯一国家だけでは、世界の流れにそう長い間反抗し続けては行けなくなりましょう。

 人口十三億人の中国は最近の経済発展の勢いに乗って世界の中の“中国“の夢もう一度と張り切っていますが、一たび染み込んでしまった経済という名の“蜜“の甘さは何処までも付きまといますから、その内に全世界の経済の渦に巻き込まれて行くことは逃れられぬ所でありましょう。

 このように見て来ますと、物質科学の完成の成果を利用したユダヤ民族の世界再統一は完遂間近であり、その見極めまでに左程の長年月は必要としないでありましょう。そして、ユダヤのその使命の仕上げの時間の中で、第三のキイ・ワードを冠した「言霊の会」では果たさなければならぬ仕事が一つ残っています。

 それは何か。明治天皇以来、諸先輩による言霊布斗麻邇の学問復興の研究・努力によって不死鳥の如く甦った言霊学の全貌を、現天皇並びに皇室に報告申し上げねばならないことであります。これを古神道で復命(かえりごと)と申します。

 第二のキイ・ワードであるユダヤが人類の第二物質科学文明を完成し、近い将来、その物質科学の成果によって世界の再統一を完遂した暁、彼等に課せられた使命の完了を報告するために日本に上陸して来たとして、日本の何処へ行くか。それは彼等の始祖モーゼにその民族三千年の使命を委託した日本の神足別豊鋤天皇より続く皇統を継承する日本の天皇の所より他には有り得ないことでありましょう。

 そこにはユダヤがその使命を委託された根本原理である言霊布斗麻邇の象徴「三種の神宝」―― しかも彼等の手には既に失われている ―― その神宝と同意義の三種の神器(鏡・珠・剱)が厳然と保持されている日本皇室の所へ来るに違いありません。

 「形而上を道と謂い、形而下を器と謂う」(易経)とあります。ユダヤが彼等の三千年の成果を引っ提げて日本皇室に報告に来るとしても、その日本の皇室には、三種の神器の形而上の「道」はなく、ただ形而下の器があるにすぎません。日本の天皇も、皇室の何方(どなた)も、宮内庁の祭官の誰一人としてその「道」の如何を知らないのです。

 これではユダヤ三千年の労苦の成果に対して報いる何らの術(すべ)を持たないこととなります。彼等の功績を労(ねぎら)い、彼等の魂を浄(きよ)め(これを最期の審判と呼びます)、その上で彼等に新時代に於ける新しい役割を与えることは不可能でしょう。

 三千年にわたる予言者歴代の労苦によって人類の第二物質科学文明を完成させ、その成果によって世界各国を再統一し、任務の完了を報告するために始祖の魂の故郷である日本に上陸することはユダヤの仕事です。

 彼等を迎え、受け入れて、その永年の労を讃え、その上で彼等の奉持するカバラの原理は生存競争時代にのみ有効な原理なのであり、これより迎える新文明時代には用のないものであることを率直に伝え、生まれ変わって新しい真理を会得するよう指導し、その上で新しい任務を与える事は日本民族の使命であります。

 さて此処で一冊の本を取上げてみることにします。「宮中賢所物語」(ビジネス社発行)と表題にあります。宮中三殿、即ち賢所、皇霊殿、神殿の三殿に五十七年間御奉仕し、この度退任された高谷朝子さんという御婦人が自分の体験を物語った本であります。

 今まで菊のカーテンの向う側にあって、決して国民に知らせることのなかった場所の中の奉仕の仕事が明らかにされた事は皇室の“平民化”の現われでありましょうか。

 一女官の体験記でありますから、宮中三殿の構造とか、祭祀の内容、またそこにどのような祭器があるか、等のことは何一つ語られてはおりません。けれど一読して明らかに知ったことは、昭和二十一年、昭和天皇が「古事記・日本書紀の神話と日本皇室とは何の関係もない」と現人神(あらひとがみ)天皇という立場を放棄された後も、日本古神道に基づく神道信仰の一切は以前そのままに踏襲され、天皇家の信仰として継承され実行なされている、ということが確認されたのであります。

 とするならば、「宮中の“特別な場所”」といわれる賢所に昔から保存されている種々の器物や記録も、昔そうであった如く秘存、保管されてあると言ってもよいでありましょう。

 これは重要な事柄であります。日本ばかりでなく全世界人類の秘宝であるアイエオウ五十音言霊布斗麻邇の原理の象徴物である三種の神器の形而上(道)と形而下(器)とが、二千年前そうであった如く一体として認識・確認される可能性が出て来た事となります。

 これは日本・世界にとって最高に慶賀すべき事態の到来を意味します。これは人類にとって一切の価値観、歴史観の転換の発端となるからであります。

 先にお話しいたしました如く、ユダヤが世界統一を完成・完遂するまでに、天皇、皇室または外戚の何方(どなた)かに、言霊布斗麻邇の学問を復命(かえりごと)申上げること、これが当言霊の会の責務であります。

 この事業が皇祖皇宗の新文明創造上の最も重要な仕事ということが出来るでありましょう。この名もほとんど知られていない小さな会が、人類の文明創造の歴史の転換・推進の鍵を握っているなどということは、全く夢の如き絵空事と思われるかもしれません。

 けれど歴史を転換し、更なる創造を続けて行くための主体性(鍵)をしっかりと握り、歴史創造のゴーサインのベルを押す任務は世界で唯一つ、この言霊の会が握っていることを忘れてはならないでしょう。

 出来得べくば、そのベルを自らの責任に於いて押し得る人が三人集まれば最上です。天の御中主の神(ウ)、高御産巣日の神(ア)、神産巣日の神(ワ)三柱を造化三神と呼ぶように、ウ<ア・ワは物事の始めであり、老子はこの事を一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず、と数霊を以って説明しています。

 一人や二人、三人程の言霊学の解説者を揃えたところで、如何程の力が出せるのか、と訝る方もいらっしゃるかも知れません。しかし言霊学の自覚者の言葉は単なる言葉ではありません。

 言霊のことを一音で霊といいます。霊が走る、(駆る)で霊駆る即ち光となります。光の語源なのです。言霊原理に裏打ちされた言葉は心の光りなのです。人の心の闇を照らし、一瞬にして闇を消し去る力があります。

 二千年以前、崇神天皇が社会の表面から言霊の原理を隠没させたことによって地球上に暗黒の地獄を招来しました。ただそれだけの変化が地球上を生存競争の坩堝(るつぼ)と化しました。

 今度は逆にこの地球に高々と言霊の言葉の灯火を掲げれば事足ります。それが第三文明時代の幕明けとなるのです。

ここで学ばれている皆様は、歴史の担い手だと思います。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。


◆/80日目:『日本と世界の歴史1』/

下記は、2009年に亡くなられた島田正路先生の書かれた文章です。

今、古事記を通して人類の歴史を学んでいます。

難しい文章ではありますが、『日本と世界の歴史1』をご紹介させて頂きます。

/『日本と世界の歴史1』/

 当言霊の会の会報「コトタマ学」が先月にて二百号となり、「二百号記念」を発行いたしました。創刊より先月号まで言霊学について事細かに解説をして参りました。筆者自身先日ふと思ったことがあります。それは二百号の文章を通して何を明らかにしようとしたのであろうか、ということでありました。それを一言(ひとこと)で表わしたら何というべきか、と。

 会報の名が「コトタマ学」ですから、その答えは「言霊」だといえば問題はありません。けれど筆者の心の中にその答えでは今一つ物足りない気持が残ります。二百号の文章、数えてみますと、会報一号分で九千字余りが詰まっています。その二百倍ですから約百八十万字ということになります。その字数を以って何を明らかにしようとして来たのか。

 脳裏に先ず「コトタマ」の語が浮かびました。次に「光り」でした。そして最後に「いのち」でありました。

 人間は生きています。生きているということは、生命が休むことなく活動しているからです。その生命とは何か。言霊です。言霊が常に、正確に言えば今、此処に於て活動していることです。活動のエネルギーは何か。「光り」です。言霊のことを一字で霊(ひ)といいます。その霊が走る、即ち駆るから霊駆(ひか)り、即ち「ひかり」となります。

 生命を人は何処に於て自覚することが出来るのか。それは人間の生命の性能である言霊ウ(五官感覚に基づく欲望次元)、言霊オ(経験知)、言霊ア(感情)、言霊エ(実践智)、言霊イ(生命の創造意志)の五つの次元を一つ一つ自覚して昇り、最後の言霊イの創造意志次元の自覚に立つ時、永遠の今といわれる今・此処(中今)に活動する合計五十個の言霊の動きとして生命を心の内面に直観することが出来ます。言霊イの次元の道理、即ちイの道(いのち)を知ることが出来ます。

 言霊の会は、約百年前、明治天皇御夫妻が日本民族伝統の言霊布斗麻邇の学問の存在にお気付きになり、国学者山腰弘道氏をお相手として言霊学の復活に務められて以来、今日に到るまでの幾多の先輩方の努力を受継ぎ、約十八年間、言霊学の完全な解明に務め、ここに漸くその全貌を明らかにすることが出来ました。会報「コトタマ学」二百号の成果を引っ提げて、言霊研究の立場から言霊原理の適用・実践の立場に切換えて、その第一歩を踏出すこととなりました。その手始(てはじ)めとして「日本と世界の歴史」についてお話することといたします。

 さて、日本と世界の歴史を書くに当って確めなくてはならないことがあります。それは歴史とは何か、ということです。こう書きますと、聞いて下さる皆さんからは次の様なお答えが返ってくることでしょう。それは辞書に書いてあります。「歴史―人間社会の変遷・発展の経過(の記録)。又このような変遷や発展を研究する学問。」皆さんも多分これに同意なさることと思います。

 右の辞書にある「歴史」の解釈をもう少し分り易く書いてみましょう。人類の社会の有様を示す記録またはそれに相当する物品が発見され、それが今から幾千年以前のものか分った時代以後、分っている種々の発見物を推理して、幾千年前にこのような事が起った。このような人がいて、かくしようと志して、かくかくの如き事を行い、世の中はこう変わって来た。世界各地そのような事が次々に起り、そのそれぞれの記録を総合し、考察すると、日本や世界はかくかくの経過を経て現在の状況を現出したと考えられる。言い換えると、過去から現在に到る人物とその行為、変遷する社会はその記録を調査・観察し、その結果を総合すると、日本の歴史はこうであり、世界の歴史はかくかくでなければならない。……という歴史であります。皆さんも右の解釈に頷(うなず)き、「それ以外の歴史は考えられない」とお思いになることでしょう。確かにこれは現代社会に於ては歴史の常識となっています。

 けれど言霊学を少しでも齧(かじ)ったことのある方なら、変に思われるのではないでしょうか。大きな本屋さんか、図書館に行ってごらん下さい。日本史の本や世界史の本はズラズラと沢山並んでいます。そのそれぞれに著名な歴史学者の名前が書かれています。そして本の内容の中の歴史的に重要と思われる事件や社会変動の原因、経過、結果の記述に大きな違いを見出すことがあります。A教授とB先生の共著となりますと、両人の意見が相違してまとまらず、両者の意見を併記してある本もあります。「明日の株価はどうなるか」という、まだ来ない未来の予測なら意見の相違もあるかも知れません。けれど歴史的記述は過ぎ去った、唯一つの事実です。その観察に相違が生ずるのは何故なのでしょうか。

 歴史に対する意見に違いが生じるのには二つの理由があります。その一つは、歴史的記録を読み、観察し、推理するのに、歴史家は自らの経験知識を以ってします。歴史に対して学者のそれぞれは生まれも、育ちも、学問的経歴もすべて異なります。それ等の相異は当然それらの知識の土台から発する意見に違いを生じさせます。

 第二の理由は更に深刻です。歴史の創造に携(たずさ)わるのは人間です。その人間には先にお話しましたように言霊ウオアエイ五次元階層の性能が備わっています。人間の行為は意識すると否とに関わらず、この五階層の性能によって行われます。創造される歴史はこれ等五次元階層の人間性能の行為の結果である筈です。しかし現代の歴史家は自らの経験知(言霊オ)と、その他五官感覚による欲望(言霊ウ)、その他中途半端な感情(言霊ア)の三性能を以って観察、推理するに過ぎません。五つの性能による産物をその中の三つの性能によって観察・推理するのですから、真実を捕らえることが出来ないのも当然です。当会発行の本の中で「日本の戦争前の歴史はお伽噺であり、戦後の歴史は推理小説だ」と書きましたのも、この理由によります。

 言霊布斗麻邇の原理が現代の日本語で理解出来る形で再びその姿を現わしました。人間に附与されているウオアエ四つの性能を言霊イの創造意志が統合する言霊原理の立場から人類の真実の歴史を書くことが出来る時代となりました。言霊の会は、言霊ウオアエの宇宙から現われ出て来る一切の社会的な出来事(現象)を統合している人間性能の第五次元である言霊イの立場から日本と世界の歴史をお話する事となります。それは先にお話しましたように、言霊イの道である生命(いのち)そのもの、人類生命そのものの歴史です。従来型の歴史を暗黒の歴史と呼ぶことが出来るならば、これから説こうとする歴史は言霊(ひ)によって創造される光(霊駆り=ひかり)の歴史であります。

 話が理屈ばかりでは興味も薄れます。従来の歴史と今からお話しようとする言霊原理よりする歴史とはどのように違うのか、をお話しておきましょう。

  時間がありましたら、現在社会の本屋さんに並んでいる歴史書を初めからお読みになってみて下さい。どの歴史書も例外なく誰かが(who)何時(when)何処で(where)何を(what)したかに始まり、その四つのWが幾つか続くと、次に何故か(why)に入ります。そして合計五つのWが果てしなく続くことになります。歴史学としては当たり前だろう、と誰でもお思いになることでしょう。この歴史学の研究方法を科学的歴史学といいます。一般の物質科学と同様に、歴史的に起る社会の同じような出来事(現象)、または幾つかの相違する出来事を集めて、その出来事と出来事との間の相違または同様の理由を推理して、歴史とは何か、歴史の行き着く処は何処か、そして最後に将来の予知を推察しようとします。
 こう考えますと、一般の物質科学の方法と全く同じ手法を用いていることに気付きます。物質科学は同じような現象のデータを集め、それ等データ間の関連を調べ、そのような現象が何故起るのか、の原因を推察し、探って行きます。現われた現象から、その元の原因を探ります。多くの結果から一の原因に帰る方法、即ち神帰る、所謂考えるやり方です。

 科学的方法なら正確だろう、と思うかもしれません。けれどそれは見当違いなのです。科学の対象は物質です。物質の金は現在でも百年前でも変わりはありません。関連を計るのに実験することが出来ます。データの計算も科学者によって相違することはありません。どんな観察者でも、観察に間違いがなければ、実験の結果は常に同一になります。歴史学の研究の対象は社会的現象です。その基礎は人間の心なのです。同じ「笑う」という現象にも、その原因には数え切れない程の多様性があります。その上物質科学には実験という手段が取り入れられますが、歴史学には実験という手段は不可能です。人間の行為には、同じ行為の再現は有り得ません。そこで学者の「推理」に頼るしかないのですが、その推理には学者一人一人の固有の経験知が働き、一つの社会現象に対して十人十色の判断が出て来ます。またその判断も時代の推移によって根本から変わることも少なくありません。つい最近の出来事についても歴史家の意見は人毎に違っています。このような歴史学的方法によっては「歴史の予見」などは百年河清をまつに等しいと言えましょう。・・・

 ではこれからお話申上げる言霊学に則る日本と世界の歴史とは如何なる歴史なのでしょうか。それは言霊学に触れたことのない人にとっては夢のような、否夢にも見ることが出来ないお伽噺のようで、それでいて言霊学に一度触れたならば、一点の疑いも差し挟(はさ)む事も出来ない程合理的で壮大な物語であり、言霊学を学ぶならば、今後の歴史がどのように展開して行くのかが掌を指さす如く明らかとなる人類唯一の真実の歴史であることを理解して頂ける歴史なのであります。

 さて、ここ三千年の世の中では全く聞くことも読むこともなかった、否、聞くことも読むことも出来得なかった真実の歴史の話を始めることにしましょう。御静聴をお願い申上げます。

 事は今から少なくとも一万年程前、世界の屋根といわれるヒマラヤ、チベット、天山、アフガニスタン等の高原地帯に幾人かの賢者がある一つの事を知ろうと志して集まった事から始まりました。一つの事とは「人間には心がある。心とは何であるか」ということでした。この人間の心にか関心を持つ賢者が次第に大勢集まって来ました。研究は語り継がれ、次第に大規模になりました。集まってきた賢人達の関心は心と言葉の関係に集注されるようになってきました。それはどれ程の年数を要したことでしょうか。後世、私達の祖先が「物とは何か」の問題に挑み、今日見る絢爛たる物質科学文明を見るまでおよそ四、五千年を費やした事から推して、略々(ほぼ)同様の年数を古代の賢者達もその研究に必要としたことでしょう。遂に彼等人間の心の研究集団は心のすべてを、その構造と動きとして解明することに成功したのでした。

〔注〕右の人類の精神文明の揺籃時代の場所をヒマラヤか、その附近の高原地方と書きましたのは、古事記「仁々芸の尊の天孫降臨」の章に「■肉(そじし)の韓国を笠沙の前に求ぎ通りて……」とあり、また降臨の出発地を「高天原」と古事記にあるからによります。別に九州の高原地帯でも構わぬ事であります。すべては今後の考古学の調査に期待するものであります。

 古代の賢人達が残した研究の成果によれば、人間の心を分析し、もうこれ以上分析し得(え)ない所まで来た時、心の先天構造(人間の五官感覚では捉え得ない、言葉によって表現する前の脳の原動力の部分)の要素十七、後天として捉え得る部分の最小要素三十二、計四十九要素となります。彼等はこれ等四十九個の要素に、現在日本人が日常用いている片假名四十九音の清音の単音の一つ一つを結び付け、その一つ一つを言霊(ことたま)と名付けました。これ以上分析し得ない心の要素と日本語の単音とを結びましたので、その一つ一つの言霊は心の要素であると同時に、言葉の要素でもあるものであります。次に彼等はこれ等四十九個の言霊をそれぞれ神代神名(かな)文字に表わし、これを言霊ンと定め、言霊の総数は五十となりました。人間の心はこれ等五十個の言霊を以って構成されており、五十個より多くも少なくもありません。

 彼等はこれら五十個の言霊が人間の心の中での働き、その運用法を探究し、それら五十個の言霊の典型的な運用法が五十通りあることを発見し、五十個の言霊の五十通りの動き、合計百の原理としてまとめ、この原理をアオウエイ五十音言霊の原理と言い、また一口で布斗麻邇と呼んだのであります。

 かくて古代に於いて言霊布斗麻邇を発見、自覚し、その現実社会に適用する方法を保持して、人間社会をいとも合理的、道理的、政治的に操作して、豊潤にして福祉の行き渡った人間社会を建設する方法を確立したのであります。この原理の発見、保持の責任者、代表者の名前を、古事記は伊耶那岐の大神と呼んでいるのであります。この精神原理の太古に於ける発見が今より八千年乃至一万年前と推定されます。

   天孫降臨

 次に古事記が「天孫降臨」と呼ぶ出来事がおこります。先ず「天孫」について説明しましょう。天とは天照大神のことであります。その子の名を天の忍穂耳(あめのおしほみみ)の命と申します。そのまた子が邇々芸の命です。天照大神から数えると孫に当りますので天孫と言います。古事記はその冒頭の文章にある「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神(言霊ウ)」から始まり、次々と神が生まれます。そして最後に天照大神、月読の命、須佐男の命の三神の誕生まで丁度百の神様が誕生します。

 この百神の中で、一番目の天の御中主の神(言霊ウ)より五十番目の火の夜芸速男(ほのやぎはやを)の神(言霊ン)までがアオウエイ五十音言霊のそれぞれを表わしている神名であり、五十一番目の金山毘古(かなやまびこ)の神より百番目の須佐男の命までが、上述の五十音言霊の整理、運用法を表わす神名です。そしてこのような五十音言霊操作の総結論として誕生するのが天照大神(言霊エ)、月読の命(言霊オ)、須佐男の命(言霊ウ)の三貴子(みはしらのうずみこ)です。この三神の中の天照大神にだけ親神の伊耶那岐の大神は言霊原理の保持、運用を許し、他の二神は天照大神の脇立の役を授けたのであります。この決定によって天照大神は言霊布斗麻邇の原理の保持者であり、原理に拠る世界文明創造(言霊イ・エ)の総覧者となりました。日本神道はこの神を皇祖と呼んで崇める事となります。天孫の天とは正しくこの天照大神を指し、邇々芸の命はその孫ということになります。

 次に「降臨」の説明をいたします。天孫降臨を従来の国家神道は邇々芸の命という神様が何処か宇宙の遠い神聖な所からこの地球上の日本の地に舞い下って来られた如く語られ、またそのような絵画も発刊されていたのであります。その夢物語の神話が太平洋戦争の敗戦と、昭和天皇の古事記・日本書紀と皇室とが無関係であるとの宣言によって崩壊し、好奇心を満足させる以外の何物でもない推理小説的歴史に変貌しました。これも古事記の編纂者、太安万呂の巧妙な話術狂言をその裏の真実を見ず、そのまま信じ込んでしまった結果でありましょう。古事記の天孫降臨の真実とは、人間の心の原理、生命の構造を余す所なく体系化した言霊の原理を保持した賢者達(これを聖(ひじり)と呼びます。太古言霊を一字霊と呼び、その霊の道を知っている人、即ち霊知りと言ったのです)が、この精神の宝である原理を自覚・保持して、地球の高みから、人類文明創造の大業を全うするのに都合のよい理想的な平地に下って来ることを言ったものであります。

 天孫降臨と呼ばれる事の真の目的とは何なのでしょうか。それは降臨する聖の代表者、統率者の名、邇々芸の命の名がよく示しております。これを説明しましょう。

 邇々芸の命の邇は似(に)または二(に)に通じます。二は第二次的の意です。邇が二つ重なりますから、第二次的な、そのまた二次的なの意となります。即ち第三次的な、の意です。何の第二次的なのか、と言いますと、もの事の最も真実なもの、即ち言霊です。言霊が第一次です。その言霊を組合せて、物事の実相を表わす言葉を造ります。言霊原理より造られた言葉は第二次の真実です。次に人間は何を為すべきか。それは造られた言葉がそのまま通用し、調和して誤ることのない人間社会の建設です。邇々芸の芸は業(わざ)であり、芸術のことです。言霊を第一次とし、言霊原理によって造られた言葉を第二次的芸術とするならば、その言葉が通用して誤ることのない調和の社会を建設することは確かに第三次的芸術ということが出来ます。文明社会の建設の仕事、言い換えますと、真の意味での言霊エの実践智による世界文明建設の政治は人間にとって最高の芸術だということが出来るでありましょう。古事記の邇々芸の命とはそういう役目を担った人の意であります。

 かくて高天原に時が来て、言霊の原理を自覚・保持する邇々芸の命人類文明社会建設集団が高原から世界政治を行うに便利な、気候温和で四季の移り変わりの明らかな土地を目指して、高天原を出発して行ったのであります。それはこの地球上に初めて英智そのものの原理と、人間社会に永遠の理想社会を建設する大きな目的をもたらす大移動の旅でありました。

 古事記に「ここに■肉(そじし)の韓国を笠沙の前に求ぎ通りて詔りたまはく、此地は朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、かれ此地ぞ甚と吉き地と詔りたまひて、……」とあります。邇々芸集団の旅がどのような経路を踏んだかは明らかではありません。けれど世界統治の最適の地として旅の終着点とした土地は明らかであります。この日本列島でありました。

/日々の生活の中では/

ヒビ(日々)
フホハヘヒ =>ビー
と、
言霊を、ヒビ(響)かせて
元『ヒ』と『ヒ』き合い繋がって参りましょう。
そして、願いをビジョンしましょう。





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